2010年02月18日

「靭公園界隈今昔」A「靭飛行場は日本軍が作ったはずだが」

x (3).JPG 靭公園は東西に細長くなっている(半分が有名なテニスコート)

 靭公園の近くで生まれ、小学校卒業までここで育ったという四方夏己さん。1月13日付以来、約1カ月振りの登場です。「靭公園界隈今昔」Aを2回に分けて投稿してもらいました。公園の前身、靭飛行場は実は日本軍が作ったという話に絡ませて、ITジャーナリストならではの切り口でインターネット情報の危険性についても言及しています。
              
蟹座

 江戸時代から続く魚市場や海産物問屋街が昭和6年に近隣の大阪中央卸売市場に吸収されてからも、靭界隈にはなおその面影が色濃く残っていました。しかし第二次世界大戦末期の大阪大空襲によって、見渡す限りの焼け野原になりました。
靭界隈の建物のほとんどが木造であったことから、一日にしてあたり一面はすべて焼き尽くされ、四つ橋筋から大阪湾に沈む夕陽が見えたそうです。
 しかし日本軍は本土決戦に備えてこの焼け野原を飛行場に転用、終戦までの数カ月間にわたって軍用飛行場として使用しました。そして終戦後すぐに占領軍がこの飛行場を接収、米軍の専用飛行場として使用しました。
昭和27年に接収が解除された後、大阪市の失業対策事業の一環として公園の整備が行われ、昭和30年に靭公園として開園しました。飛行場の跡地だから靭公園は東西に細長い、ということは広く知られています。

 被災者の多くがまだ健在であった時代には、空襲跡に作られた飛行場は戦争の生々しい記憶として靭界隈の住民には忘れることのできないものでした。見事に焼け尽くして見渡す限りの更地となった土地を飛行場に転用するという発想も、本土決戦を本気で考えていた当時の日本軍ならではという気がします。戦後生まれの悪ガキ達ですら、何となく空襲の凄さを感じる話ではありました。
 焼け跡を日本軍が飛行場として何カ月使用したのかは定かではありませんが、焼け出された住民達は、にわか仕立ての靭飛行場から赤トンボ(旧日本軍の練習機の通称)が焼け跡の上空をフラフラ飛んでいるのを見て、「あんなもんで本当にアメリカをやっつけることができるんかいな」と不安になったそうです。
すでに陸海軍の戦闘機が底をつき、わずかに残った練習機で本土決戦を挑むことの無謀さはもちろん、その燃料たるやアルコールに松脂を混ぜた代替ガソリンだという噂がどうやら本当であるような飛び方に「もうあかんのとちゃうか」と感じた人は少なくないとのことでした。

 しかし靭公園界隈の話を書くに当たってインターネットで関連情報を確認したところ、面白いことに気付きました。
「靭公園界隈が江戸時代から雑喉場(ざこば)魚市場として、また全国有数の海産物問屋として栄えた」「昭和6年に近隣の大阪中央卸売市場に吸収されてその役割を終えた」「昭和20年の大阪大空襲によって廃墟となった」「その廃墟の跡を利用して占領軍が飛行場を作った」―という内容が、いずれの情報にも判で押したように共通しています。(四方夏己)

猫小噺―飛行機に乗ってしばらくすると、スチュワーデスが「お客様の中でお医者様はいらっしゃいませんか」と聞く。偶然乗り合わせた医者が席を立ち、事態を解決することになった。またしばらくするとスチュワーデスがやってきて言った。「お客様の中で牧師さんはいらっしゃいませんか?」
posted by ウツボおやじ at 00:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
私が卒業しました大阪市立大学は、杉本町の学舎が戦後米軍に接収され、昭和25年入学生は南区の道仁小学校で授業を受け、27年からは靭小学校の建物で授業を受けました。現在の靭公園は米軍の飛行場で(小型機専用)授業中でも再三離着陸し、その度に窓を閉めて騒音を防ぎました。
28年からは米軍から杉本町校舎が変換され、最後の年だけは杉本町で授業を受け、杉本町で卒業式が行われました。この飛行場を作ったのは日本軍です。
Posted by 尾形卓也 at 2011年07月18日 10:40
現在後期高齢者です。大正区に住んでいましたのでガキの頃にチャリンコでよく通いました。ムスタングも舞い降りてきてかっこいいなあと思いました。主に将校が移動する際に使ったのでしょうか、セスナやスチンソンL-15だったと思いますが軽飛行機が多かったですね。
返還後しばらくは新聞社が原稿投下用の場所として使っていたようです。毎日新聞のマークの付いた双発の飛行機から 通信筒を落とし下で係員が受け取り落下傘を畳んでいたのをはっきり覚えています。
Posted by ごっとん at 2014年06月19日 17:46
最近小生の親類の者から、靭公園に昔飛行場があり、大正飛行場と言っていたと聞きました。ネットで見ますと大正飛行場は現八尾飛行場の前身の
ようですが、名前は兎も角、この地に飛行場があったのは確かなようですね。そこで、この飛行場(軍)にて製作していたプロペラを持っていますが、記念となるようでしたらどこか専門の記念館へ相談をしたいのですが、ご存知の方いませんでしょうか?
Posted by 林義夫 at 2016年08月30日 15:17
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