2010年05月31日

鳩山首相の「5月末決着」とは何だったのでしょうか

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普天間飛行場(写真左)と日本の米軍基地

朝日新聞「素粒子」が普天間問題、小学生に聞かれたらどう答える?として、3つの質問をあげています。@基地のせいで苦しんでいる沖縄の人たちのために、基地をなくすって聞いたけど、どうしてまた沖縄に基地ができるの?A日本で一番えらい人がみんなに約束したことなのに、守らなくていいの?アメリカのえらい人のほうがもっとえらいの?B沖縄の人たちが困っているのに、どうしてほかの場所に住んでいる人たちは助けてあげないの?どうして、やさしくないの?
この質問に、日本で一番えらい人はどう答えるでしょうか。
ちっ(怒った顔)

鳩山首相が言い続けてきた「5月末決着」は、最終的にはこういうことだったのですね。マスコミ各紙は29日付け朝刊の1面と社説で、一斉に鳩山首相の退陣要求かほぼそれに近い厳しい見解を発表しました。そうでしょう、決着の条件として移転先の地元、連立与党、そして米国政府のいずれもから了解を取ることが前提だと再三にわたって繰り返してきたのに、沖縄は一段と反発を強め、徳之島も反対姿勢は崩さない。しかも社民党党首の福島大臣を罷免せざるを得なくなり、社民党は昨日の全国幹事長会議で連立離脱を決めて野党として下野しました。結局、現行案に復活することで米国とだけ合意し、「5月末決着」のもうひとつの約束だけはかろうじて守った形をとったのです。

関連して重要なことは、沖縄の人に深い失望感を与えただけではなく、多くの有権者が総選挙という形を通じて自分の意志で直接首相の首を代えたことに対する裏切り行為になった点です。先の総選挙による政権交代は、日本の近代政治史にあっておそらく初めての出来事だったといえるでしょう。それだけに識者は、鳩山首相と共に政治と金の問題を抱える小沢幹事長の退陣、内部から退陣論が出てこない両氏以外の民主党議員の異常さを指摘。不幸なのは国民であって、このままでは政治そのものの信頼が根底から失われるとしています。人間の心は、一度「失望」という固い殻に閉じこもってしまうと、なかなか容易に蓋を開けることはできないのです。

ところで鳩山首相が、改めて認識を深めたという東アジアの安全保障環境と米海兵隊の抑止力問題、さらには在日米軍基地とその負担などについて、今一度じっくり考えて議論する環境が整いつつあります。つまり「抑止力」ということだけを、ひとり歩きさせてはだめだという議論です。たとえば米国は海外に5つの大基地を持ちますが、そのうちの4つまでが沖縄、横田、神奈川など日本にあるのです。しかも日本に駐留する約4万人の米軍ですが、陸軍の実戦部隊はおらず、主力は沖縄中心に配備されている海兵隊(第3海兵遠征軍)と横須賀、佐世保を母港とする第7艦隊です。米本土以外で海兵隊部隊と空母機動部隊が駐留しているのは日本だけで、この部隊は日本や東アジアの防衛のためだけでなく、インド洋や西太平洋などグローバル対応を任務としているのです。

さらに日本、東アジアに対応を絞ったとしても、予想される火種は朝鮮半島と台湾海峡であることは自明の理です。しかしその朝鮮半島も台湾も、短期間で容易に片がつくとはとても考えられません。このため韓国のマスコミですら、米軍基地の問題に関して「日本は台湾、朝鮮半島と心中する気か」との論評を出していると聞きます。考えてみれば沖縄だけでなく、首都東京近郊の横田基地をはじめ多くの米軍基地が人口密集地のど真ん中にあり騒音・事故など被害は深刻です。先進国といわれながら、首都の上空を無制限に他国の軍機が飛び回る例はほとんど聞いたことはありません。

 また米軍の事故・米兵の犯罪が多数発生しているにもかかわらず、公務中の事件・事故についてはいっさい誰も裁判をうけておらず、公務外の事件・事故についても日本の裁判権は容易に機能できないなど、不平等な法整備の改善など不可欠です。一方で米軍の軍用施設から学校、住宅、ショッピングセンター、米軍基地で働く従業員の給料、米軍家族の水光熱費などまでも日本が負担する制度も問題です。ここに例の事業仕分け部隊が入ったら、どう裁くのでしょうか。米軍にかかわる総経費の70%をいま日本が負担しているとされており、もし米軍がすべて日本から撤退し、その経費すべてを米国が負担するとなったら、アメリカはそれだけで大変なことになると考えられます。

  鳩山政権のお粗末な対応によっていろいろとあぶりだされた米軍基地問題、改めてその歪んだ内容なども含めて論議することが重要となっています。あえて鳩山首相の「功」といえば、この点だけでしょうか。きょうで5月は終わり、明日から6月。うっとうしい梅雨の本格化ですが、政治や経済の世界だけでもスカッといきたいものです。
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2010年05月30日

バラと城の街・福山

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向かいのホテルから見た福山城

さすがにこの歳になると、ゴルフの連ちゃんは疲れますね。金曜日には岡山県の西部、井原市で、土曜日には広島県の東部、福山市でゴルフをやってきました。両日とも絶好のゴルフ日和で、仕事上の付き合いとはいえ、わくわくする雰囲気でした。それだけにスコアは言い訳になりませんが、最近では最低でした。
もうやだ〜(悲しい顔)

 ところで福山市は、いつ行っても落ち着いた街で気持ちがいいですね。JRのホームに立って電車の到着を待つとるんるんバラを、バラを下さい、百万本のバラを下さいるんるんの音楽が響きます。そう、福山はバラの街なのです。1945年の終戦の年、福山は戦火によって市街地の実に8割が焼け野ヶ原になったそうで、それからの復興を長年かけてバラに託したのです。

最近では、万葉の時代から潮待ちの港として栄えた「鞆の浦」が話題を呼んでいます。たとえば、宮崎駿が「崖の上のポニョ」の構想を練ったとか、埋め立てでもめるとか、さらには1867(慶応3)年、坂本龍馬が乗ったいろは丸と紀州藩の明光丸が衝突し沈没した場所は、鞆沖の燧灘の中央部だったとか、とにかくいろいろと注目を浴びています。

  バラ、鞆の浦さらには悠々と市内を流れながらも中国地方では一番、水質汚染の酷い芦田川等々いろんなネタはたくさんありますが、この街で一番好きで落ち着くのはやはり福山城です。直接城内を散策してもいいし、他のいろんな場面から眺めてもいい。例えば向かいのシティホテルは城を眺める絶好の場所で、宿泊した時には必ず朝晩時間をかけて眺めるようにしています。

今から約400年前の元和5年(1619)に水野勝成が築城した江戸時代における名城で、ここも8月の空襲で天守閣などは消滅しました。ただ昔日の姿を留める伏見櫓・筋鉄御門は国の重要文化財に指定されているそうで、城跡は国の史跡として保存されています。そうそう、先のNHK大河ドラマで「篤姫」で、草刈正雄が演じた例の悩める老中・阿部正弘は7代目の福山城主でした。 ...
ふらふら

こんな日もあるのでしょうか、どうも疲れて、キーボードを叩く気力が沸いてきません。
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2010年05月29日

「大阪の橋今昔」D―海部堀川に架かった6つの橋

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なにわ筋にある門樋橋と永代橋の石碑(写真左)、「永代浜」の跡地・楠永神社

大阪西区にある靭公園にはかつて、海部堀川(かいふほりがわ)という川が流れていました。そこには上流から門樋橋、永代橋、上之橋、中之橋、海部橋、下之橋の6橋が架かっていたのです。昭和26年(1951)に海部堀川は埋め立てられて6つの橋ともども姿を消し、いまは公園の一角にある楠永神社に「永代浜跡」の看板と、なにわ筋に大阪市が建てた永代橋、門樋橋の石碑が残るのみです。

海部堀川は元和8年(1622)に靭に移住してきた塩干魚商人らが、荷物陸揚げの便を良くするために寛永元年(1624)に開削したとされています。一方で淀屋の2代目、淀屋言當(よどやげんとう)が開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町2丁目の楠永神社がある場所)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立したと、具体的名前を出した説もあります。いずれにしても、魚の干物荷役の利便性を考えて開削されたものです。

かつて本町通りの南側に慶長5年(1600)に開削された阿波堀川という川が流れており、現在の本町通りとなにわ筋が交差する靭本町一丁目交差点南側に太郎助橋というひとつの橋が架かっていました。海部堀川は阿波堀川のその太郎助橋上流から北へ分流し、100bほどのところから西に折れて京町堀川の最下流部に合流する、延長約550b、幅が18〜20bの堀川だったのです。この阿波堀川から屈折点までを永代堀(えいたいぼり)、屈折点あたりを永代浜とそれぞれ称したそうです。

永代浜は荷揚場および塩干魚・鰹節などの専門市場として賑わう靭の中心地で、とりわけ干鰯市は「摂津名所図会大成」で「此浜辺数多の土蔵ありて、諸国より積み上がる干鰯をおさむ。斯て問丸市を立てて交易し、又是を諸国へ商ふ」と記されたように有名でした。干鰯は当時の大切な肥料で、昭和28年(1953)に建てられた永代浜跡の碑には、「うつぼ 辻善之助山中政七」と刻まれています。

明和4年(1767)に永代堀は一度埋め立てられましたが、間もなく幅3間(約6b)の堀として復活し、最上流部に門樋橋、その下流に永代橋が架かっていました。門樋橋は最初、通常の橋ではなく門樋(水門)であり、橋名もその名残からきています。対して永代橋は海部堀川の開削当時から永代浜に通じる橋として架けられた歴史のある橋とされています。大正2年(1913)に市電の敷設に伴って幅22.4b、橋長4.4bの橋に架け替えられました。

ところで織田一磨という版画家が描いた「永代浜」の石版画には、中之橋から上流の上之橋(大正の頃までは上海部橋)を臨んで、波も静かな掘割と両側に立ち並ぶ土蔵などが美しく描かれています。西の小京都といわれる倉敷市の白壁街の雰囲気です。テニスコートとなって毎日多くの老若男女がテニスボールを打ち交わし、その横のなにわ筋は四六時中車が行き来する現在の喧騒なスポットからは、到底想像することはできない風情です。まさに水都大阪そのものだったのでしょう。
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2010年05月28日

四方夏己のIT講座―クラウドについてA「雲の形を読む」

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ITジャーナリスト四方夏己さん、4月18日以来久々の登場です。もう前回のことお忘れかもしれませんが、IT業界で話題となっているクラウドコンピューティングについての解説、その2です。IT(情報技術)の資産を所有せずにネットワーク上のITサービスを利用するとされる「クラウドコンピューティング」。しかし実際にはどうなのでしょうか。まさにクラウドの名の通り、雲をつかむような話題だけが先行している状況で、IT業界もユーザーも実際にどうなるのか模様眺めといっても過言ではなさそうです。
曇り

 雲についてはさまざまな話があるが、中でも印象深いのは第二次世界大戦における戦闘機乗りの話である。負けがそのまま死につながる空中戦へのパイロットのこだわりは言うまでもなく、いかに空中戦を制するかに生活のすべてが捧げられていたと言って過言でない。上官による厳し過ぎる訓練も、生きるためには必要であったとは、空中戦を生き延びてはじめて理解できたことらしい。

 戦闘に入る前にすべき最も重要なことは、雲の形を読むことだという。戦闘機のパイロットは、空中戦に入る前に雲の形と風の動きを判断して、5分後や10分後、30分後の雲の形を予想する。これをしておかないと、空中戦に勝ち残っても、基地や空母に帰投することができなくなる可能性がある。空中戦ではより多くの燃料を消費するので、帰る方向がわからなければ燃料切れで海の藻屑となる。これは実際の洋上戦でよくあったことらしく、帰投しなかった戦闘機の何割かは、撃墜されたのではなく帰れなかったということだ。

 帰投の方向を判断するのは編隊の隊長や小隊長の役割だが、激しい空中戦の後で気付いて見れば洋上にただ一人ということも珍しくなく、自分で方向を判断できなければ命の保証はない。エンジンや機銃など磁性体の塊でもある戦闘機にとって、当時のコンパスなど何の役にも立たない。ましてや空中戦で激しくエネルギーを放射した機体の中では、コンパスに頼る方が危険でもある。地形で判断できない海上の場合、雲の形が唯一の頼りとなる。

 海上で戦われる空中戦の場合、戦い終わり興奮冷めやらぬ中、空と海は同じ青、つまり自分が上を向いて飛んでいるのか下を向いて飛んでいるのかすらわからないという。ましてや帰る方向など見当もつかない。太陽で東西南北はわかっても自分の現在地が掴めなくては帰れない。しかし雲の形を読むことによって、自分の現在地と帰投の方向がわかる。運動神経以上に、この予想能力の優劣に生死の境目があった。

 雲(クラウド)という言葉には、かなり曖昧な響きがある。雲にロマンを追い求めるむきにはそれで良いが、雲を利用する者にとってこの曖昧さは危険である。まず変化する雲の形を読むこと。これが空中戦を生き抜いた強者の教えである。(四方夏己)
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2010年05月27日

大阪で14回目の中国・江蘇輸出商品展示会

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初日のテープカットと会場内

中国江蘇の輸出商品展示会が、25日からきょう27日まで大阪市中央区のマイドームおおさかで開かれています。江蘇省商務庁が海外で開催する最大・最重要なイベントのひとつで、これまで大阪では毎年1回開催されており、今回で14回目です。会社が後援している関係で、末席ですがテープカットなどに参加してきました。ほほ1カ月前に事前調査に来た幹部連中と「乾杯、乾杯」をやってカラオケを歌いあっていただけに、「你好、你好」にも一段と親しみが沸きます。
イベント

江蘇省は上海市と隣接しており日本との貿易はむかしから非常に活発で、2009年度の対日貿易総額は422億ドル。日中貿易総額の20%を占めます。世界的に経済動向が不透明な中、日本とともに貿易額が多い欧米との取引が停滞しているだけに日本への期待は大きく、今回は規模が過去最大となっています。具体的にはアパレル、ベッド用品やリビング用品などのホームファブリック、靴、帽子、日用雑貨類の5分野から180社の有力企業が参加、展示スペースは昨年の3000平方bから4000平方bに拡大しています。また規模の拡大だけではなく、展示商品なども全体としてレベルアップしていました。同省など沿海部は人手不足と人件費の高騰などが深刻で、また早晩、人民元高という厳しい環境が予想されており、それだけに日本との取り組みを更に強固にしたい気持ちが随所にみられました。

江蘇省は長江の河口域に広がり、北部は淮河という川が流れて黄海に面します。江蘇の名は江寧(今の南京市)の江と蘇州の蘇からきており、省都は南京市です。中国では杭州などがある浙江省と並び経済的に豊かな省です。しかも山東省などのように青島、済南、泰安などの一部主要都市と農村部との格差があるのに対し、江蘇省は南京、蘇州、無錫、南通など各市が総じて豊かなのが特徴です。これは改革開放政策への取り組みが、他地域に比べ早かったことなどが要因といえるでしょう。

一方で歴史的にも有名な場所が多く、また長江や大運河が縦横に走るなど水路が網の目のように発達していることなどから、観光地としても恵まれています。中国新幹線の普及も後押ししており、南京でも上海から約2時間です。その南京はまさに歴史の町で、多くの史跡と共に孫文の墓である中山陵や孔子廟、南京大虐殺記念館などにはこれまで複数回行っています。東洋のベニスとされる蘇州は上海と隣接するだけに、仕事やゴルフで何回となく行きました。寒山寺や斜塔の虎丘ももちろんです。さらに無錫、鑑真和尚やチャーハンで有名な揚州、黒酢の鎮江、発展目覚ましい南通等々どこも思い出があります。

そういった中でもう一度行ってみたいのが、20数年前に一度だけ行ったことがある「宜興」(ぎこう)という焼き物の町です。この地でしか取れない紫砂を使って焼いた紫砂壺という急須はとくに有名です。大きな鍾乳洞がある観光地なども、当時は「ニイハオ・トイレ」でしたが、かなり発達していると聞いており、その変化を見たいものです。そして何度行っても気が晴れるのが中国第3の湖「太湖」です。北岸は無錫、西岸が宜興、東岸は蘇州といずれも江蘇省の町で、南岸は浙江省の湖州です。るんるん君の知らない 異国の町でるんるんなんて「無錫旅情」を口ずさみながら、湖上を走るジャンクを眺める。いいですねえ。ただ良く知る人に聞くと、水質や景観は南岸の湖州が一番だそうです。
飛行機

輸出商品展示会の話が、とんだ江蘇巡りになってしまいました。来月半ばに1週間強、上海から南京など江蘇に行く予定です。ぜひ宜興、太湖に寄ろうと思っています。
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2010年05月26日

船場・本町で一番流行る寿司屋さん「はや田」とは

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外から見ればそれほど大きくなさそうだが、客席は50人近くある。店内カウンターで大将の早田さん(右端)と弟さん(真ん中)

大阪の船場・本町には本格的な寿司屋がありません。もちろん各シティーホテルやキタ、ミナミ、さらには各地の商店街や駅前にはネタなどもしっかりして美味しい店は沢山あるのですが、どういうわけか本町には見つかりません。
わーい(嬉しい顔)

そういった中で創業160年を誇る箱ずしで有名な吉野すしは別格として、唯一本格的で、それだけにいつも賑わっているのが「鮨 はや田」です。本町通りから御堂筋のひと筋東・心斎橋筋を南に数十メートル。本町に働くサラリーマンなら誰でも知っているはずです。以前はある専門商社系の割烹でしたが、店主の早田さんが12年前に買い取って改装し、「はや田」を開業したものです。もともと早田さんは、同じ心斎橋筋で本町通りを逆にちょっとだけ北に上がった「すし中」という寿司屋に21年間働き、花板としてカウンターを仕切っていました。ですからこの近辺ではなじみの人も多く、かくいうオヤジも30年近くのお付き合いです。

1階は9人ほど座れるカウンターと4〜6人席が2つですが、2階は同じく4〜6人席の小部屋とオープン席が各2つ、さらに奥には10人強入れる中部屋があり都合45〜50人、本格寿司店としてはかなりの規模です。それが午後8時過ぎまでは連日ほぼ満席で、この時間帯までに食べようと思えば、事前に電話で席を予約する必要があります。地下本町駅から至近で交通の便がよく、また周囲に競合店が少ないなどの好条件に恵まれているとはいえ、「はや田」人気の秘密はどこにあるのでしょうか。

まずはネタの新鮮さです。とにかく大将の早田さんが、季節の美味しいものにこだわります。岩ガキ、白エビ、ウニ、アワビなどはもとより、同じ赤身、白身でもそれぞれ産地にこだわって仕入れており、握ってもアテにしてもいいですねえ。旬には鯖や秋刀魚、鯵、鰯、太刀魚などを刺身でいただく。いまは鱧ですか。ガラスケースの中にあるその日のお勧めを大将に聞いたり、覗いて注文できるのはもちろんカウンターに座れる人の特権ですが、結構1〜2階の女性スタッフもしっかり対応できます。ただ店が一回転する午後8時過ぎには、その日のお勧め品がかなりなくなっているのが玉にキズで、常連のお客さんの中には「明日、早く来るからとって置いてや」と予約する人も少なくありません。

寿司屋に入って、確かに寿司や刺身はいけるが焼きや椀がもうひとつ?と首をかしげることがあります。実は早田さんが以前働いていた「すし中」本町店も若干、そのきらいがありました。本人もそれは気にしていたようで、独立する際にその煮炊きもののプロを連れてきました。長年にわたり、本店の方で厨房を預かっていた弟さんです。握りとアテ、そして焼物、てんぷら、煮物、椀物なども美味しく食べさせる店としスタートすることができたのです。これも人気の秘密です。

3つ目は店の雰囲気でしょう。とにかく気さくで明るく、威勢がいい。威勢がいいとはいっても決して喧しくはなく、結構落ち着いて飲める店です。しかも店がきれいで気持ちよく過ごせます。前の店も含め30余年というから、早田さんを相当なおじさんと想像するでしょうがなにを、なにを、写真のように超男前の若々しい明るい大将です。女将さんがまた良い。大将と似合いの別嬪さんで、しかも昼でも夜でも上へ下へとよく働きます。

そして4つ目、実はこれが隠れた秘密と思うのですが、上記3つの要件を満たしながらも価格的にリーズナブルだということです。もちろんお勧め品や隠れネタをバグバグ食べたり、「百年の孤独」や「魔王」などをキープすれば高くつくでしょうが、通常、アルコールをあまり飲まなければ5,000円で十分と思います。オヤジの記憶に間違いなければ、握りはいずれも2貫で海老、ハマチ、マグロ、サーモンが400円、剣先、鳥貝、ウナギ500円、いくら、タイ、ヒラメ600円、ウニ、赤貝800円、アワビ1200円、トロ1500円、細巻き300円、鉄火500円などの値段ですから。もちろん昼もいっぱいで、握り寿司の並が1000円、中1600円、上2300円ですか。よくいただくのは1500円のチラシです。

今年10月1日、すぐ北隣に米国の超高級ホテル「セント・レジス」がオープンします。地下には各種レストランなどが入り、本町通り心斎橋筋のちょっと北、備後町通り角の中国料理店「華都飯店」なども移ると聞いています。ただ寿司屋さんのうわさはなく、たとえあっても間違いなく客は「はや田」に流れるはずで、秋からもっと繁盛することが予想されます。
わーい(嬉しい顔)

ところで、正直言ってオヤジは夜、寿司をほとんどいただきません。悪酔いしては困るからと、鉄火か河童を一本切ってもらうだけです。あとはアテです。お造りや焼魚か煮魚。受け皿が深く、たっぷり一合入ったマス酒で最初は必ず「呉春」(大阪・池田)、最後は「出羽桜」(山形)が定番です。その間を、「景虎」「越後白雪」「越後千禄 禅」(いずれも新潟)で調整します。「出羽桜」の1,000円以外、他はすべて1合850円なり。3杯も飲めば、まさに「甘露、甘露」と至福のひとときです。
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2010年05月25日

「美しい星空の町」を標榜する岡山県美星町

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美星天文台の望遠鏡でのぞく土星
 テレビを見ていたら、“流れ星伝説と、その名にふさわしい美しい星空の町”として岡山県の美星町(びせいちょう)が紹介されていました。5年ほど前まで、生まれ育った田舎町と同じ郡に属して高校も同じ学区だった関係で昔は何度も足を運びましたが、最近はすっかりご無沙汰です。その様変わりにびっくりするとともに、「星が美しい町」をアイデンティティにして町興しする姿勢に感動しました。
晴れ

美星町は岡山県西南部にあって、平均標高300bの準高原地帯です。1,800世帯・人口5,000人余のちっちゃな町で、2005年に小田郡から離れて井原市と合併しています。美星という町名は星が美しいから名づけたのではなく、町内を流れる美山川と星田川という2つの河川の頭文字を取って美星としたのです。ただ市街地から離れた高原の地で、しかも「晴れの国・岡山」だけに晴天率の高い瀬戸内式気候に恵まれるなど、もともと夜空が美しく見えて継続的に天文観測するのに適していたはずです。そこにアマチュア天文ファンの提唱で1989年、光害を対象とした星空を守るための専門条例とされる「美しい星空を守る美星町光害防止条例」を日本で初めて制定・施行しました。空気中のチリやホコリなどが人工の光を散乱・反射することで夜空が明るくなって星が見えにくくなる。このような「光害」を防いで、地球環境とその美しい星空を守るという条例です。

さらに93年7月7日七夕の日に、町営「美星天文台」がオープンしています。国内最大級の直径101cmの反射望遠鏡を備えた公開天文台です。「最高の星空を、最高の条件で、誰でも気軽に見ることができる」をコンセプトに運営するこの天文台は、初めて望遠鏡をのぞく人でも、家族連れでも、気軽にスターウォッチングできるそうです。もちろんアマチュア天文家や高度な天体観測でも活用されています。テレビ放映では、この時期ひときわはっきりと観測できる土星の輪が映し出されていました。

同町には「星尾神社」という神社があります。今から700年前の永久年間に3つの流れ星が飛来し、同町内の3ヵ所にそれぞれ落下したため、当時同地を治めていた豪族が落下地近くに社を建てて祭り、その後に「星尾神社」と命名されたそうです。ことほど左様にこの地は星とのかかわりが深く、今では公衆トイレの窓も星型、消化栓の蓋も星の印と、町中が星だらけです。もちろん星空にロマンを求めるアマチュア天文家の観測所も、町中至る所にあります。
TV

ところで作家遠藤周作が書いた「反逆」という長編小説に、同町の「小笹丸城址」と竹井藤蔵という武将が記述されています。実は遠藤周作の母・郁さんは隣接する現笠岡市の出身で旧姓竹井、つまり土豪竹井党を遠祖に持つそうです。そこで周作は、遠い先祖への思いを込めて竹井藤蔵なる人物を創作したわけです。なお本の中で竹井藤蔵は、夢を託した荒木村重が信長に背いたことで運命を狂わせてしまうのです。ずっと以前、遠藤周作が「血の故郷」として、岡山県小田郡美星町(当時)を紹介していた新聞記事を読んだ記憶があります。なおNHKの「武蔵」や「坂の上の雲」など、テレビのロケ地としても有名です。
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2010年05月24日

宮崎県で広がる家畜の口蹄疫感染、ある面では「人災」といえます

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早晩、国産の牛・豚肉価格にも影響が出るはずです(大阪市内のスーパーで)

るんるん「ある晴れた 昼さがり 市場へ つづく道 荷馬車が ゴトゴト 子牛を 乗せてゆく 何も知らない 子牛さえ 売られてゆくのが わかるのだろうか ドナ ドナ ドナ ドナ 悲しみをたたえ ドナ ドナ ドナ ドナ はかない命」るんるん

 もともとは中東欧系ユダヤ・イディッシュの歌とされており、1960年初にジョーン・バエズが「Donna Donna」として歌い大ヒット、日本でも岸洋子、森山良子などがカバーしました。牧場から市場へ売られていくかわいそうな子牛にたとえて、ユダヤ人がナチスによって強制収容所に連行されていく様子、さらには人間の子供を子牛に見立てた反戦歌などとして世界各地で歌われました。

 ただ牛や豚が食用肉として売られること事態は、人間社会と関わる自然の摂理としてごく一般的なことです。しかしいま宮崎県では、その一般的なことすら果たすことができず次々と牛や豚が殺処分されています。家畜の口や蹄(ひづめ)に水ぶくれができる伝染病の「口蹄疫」(こうていえき)の広がりは、止まるところを知りません。感染した牛の肉を食べ牛乳を飲んでも問題はないですが、異常な速さで伝染しやすい疫だけに病気に罹った家畜はもとより、たとえ罹っていなくても発生農場から半径10キロ以内の全家畜がワクチンを接種された後に処分されるという壊滅作戦が求められています。その対象は16万5千頭とされており、すでに殺処分された牛や豚と合わせていったい何頭が犠牲になるのか定かではありません。

  同時に宮崎県や養牛・養豚農家にとって深刻なのは、種牛も処分せざるを得ないという恐れです。県の家畜改良事業団が飼育する種牛50頭のうち、エース級6頭だけは特例として別の場所に移動していましたが、なんと筆頭の「忠富士」が口蹄疫に巻き込まれて殺処分されました。彼は今年度使用される精液16万5千本のうち4分の1を占める「宮崎牛ブランド」の超々エースでした。忠富士を中心に宮崎牛の精液は全国から引っ張りだこで、宮崎で精液・種が枯渇することはイコール、但馬、松阪、近江などなど日本中の養牛が被害を蒙ることになります。それだけに県としては、エース級の残る5頭を含む49頭の種牛を特例で経過観察措置にして殺処分回避を求めていますが、まだ国との交渉結果が出ていません。
 
  なぜ被害がここまで拡大したのか新聞報道などをまとめてみますと、第一は現場の人手不足で牛や豚を殺処分する獣医師の絶対数の不足だそうです。これ以上に深刻なのが、処分した牛や豚を埋める土地がないということ。多くの畜産農家が土地を最大限使った設備・施設で畜産を営んでおり、家畜を埋める土地すらないとされています。しかし決定的だったのは初動ミスとされています。宮崎県では10年前の2000年、92年振りに口蹄疫発祥に見舞われましたが、口蹄疫が発祥すると牛が全滅するとの情報が徹底されており、県内総厳戒態勢など対応も速やかだったために、被害を受けた農家は3軒で処分された牛は35頭で収まった経験を持ちます。

  ところが今回はこの教訓が生かされず、消毒ポイントや感染した農場周辺の住民の移動など、いろいろと水際作戦が徹底されなかった模様です。初動の甘さという点で、最もお粗末なのは日本政府です。県下で初めて口蹄疫に感染した牛が発見されたのが4月20日。その後次々と感染が拡大したにもかかわらず、赤松農林水産大臣がおっとり刀で宮崎入りしたのは20日後の5月10日です。連休は外遊という名の息抜きで、ゴルフをしたとかしないとか喧伝されています。3日後に獣医師約140人が増員されましたが、鳩山首相が口蹄疫対策本部長に就任したのは17日。その時までに殺処分対象の家畜は、実に11万頭を超えていました。この後手、後手の対策、「人災」といっても過言ではありません。
霧

  宮崎県は養豚飼育数全国2位、肉用牛3位、農業産出額約3,300億円の6割を畜産が占めるまさに畜産王国です。これまで何度も行った宮崎で、地鶏などとともに宮崎牛に舌鼓を打ちました。ただ「殺処分された牛の目は開いたまま。殺してもじっとこちらを見ている」「電気ショックで生後1ヵ月の子豚を処分したが、1歳になる自分の子供の姿が重なる」など、畜産農家や自治体職員の生々しい発言内容を耳にすると、ここしばらくは牛肉や豚肉は遠慮しようという気持ちになるのです。
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2010年05月23日

薫風5月、しかし口の中ではスースーと透き間風

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新幹線車内、たびたび車掌室で説明を求める乗客たち(写真右)。新大阪駅午前1時過ぎ、やっと窓口で始まった特急料金の払い戻し(同左)

  「薫風」―風薫る爽やかな5月だけに、あまりぼやきたくはないのですが、どうもJRの対応には腹が据えかねることが多々あります。まあ当方も、大概が酔っ払った時に遭遇するわけで、あまり大きなことは言えないのですが…。
新幹線

 先週19日の水曜日に倉敷市のホテルでパーティがあり、帰路21時前まで岡山市内の知人宅で一杯ご馳走になった後、岡山発21時14分の名古屋行き新幹線のぞみに乗りました。新大阪着は21時58分の予定です。ところが10分ほど走ると、どうも新幹線の調子がおかしいのです。相生の前後だったでしょうか、やっと車内放送で「前の列車が遅れているためにスピードを落としています」との簡単な説明です。「やれやれ、これは大変だ」と思い、ついつい車内販売でワインなどを求めたのです。

 すると5分ほどスロー運転の後、とうとう新幹線は止まってしまいました。乗客も不安で騒ぎ始めましたが、車内放送は「前の列車が遅れているため」を繰り返すだけでさっぱり要領を得ません。オウムのような同じセリフの車内放送を聞くだけで我慢ができる限界は、約10分間です。ついに立ち上がって車掌室に出かけました。すると5〜6人の乗客が車掌を取り囲んでいるではありませんか。「なぜなの」「いつになったら走るのか」と次々に質問しますが、「もう少しお待ちください」を繰り返すだけです。数分してやっと、「3つ前を走るこだまが停電で止まっている」との情報開示で、ちょっとだけ納得です。席に戻る途中で乗客の誰かが、「鳩の糞がパンタグラフについての停電らしい」と、まことしやかなガセネタを流したので、「日本国民は不幸やなあ。政治では小鳩に苦しめられ、新幹線に載ってもまた鳩の糞か」なんて、茶化す余裕はまだありました。

 ところがです、今度は車掌さん「3つ前のこだまが停電のため、後続列車が遅れています。申し訳ありません」を1分間置きに繰り返すだけで、またまた10分近く立ち往生。年のせいか、はたまたアルコールのためか、どうも辛抱できなくなっています。再び車掌室に出かけて言いました。「あのねえ、全く同じ情報の繰り返しは余計にお客さんをいらいらさせる。せめて進捗状況や今後の見通しがいえませんか。それより目と鼻の先の姫路駅まで早く行けるように本部と交渉してください」などと提案しました。

  それでかどうかは知りません。ノロノロと動き始め、数分で新姫路に停車しました。その時点で時刻は22時40分頃だったと思います。後で考えたら通常岡山−姫路間は20分ほどですから、もうこの時に岡山を出てから1時間半近く掛かっていたのです。ただ迷いました。新快速に乗ると1時間ちょっとで大阪駅に着きます。しかしうまく連絡があるかどうか。他の乗客もそうです。何しろ、何分待ったら新快速や快速があるなどのアナウンスが皆無ですから、皆さんうろうろするばかり。しかもめったに、新幹線から山陽線に乗換えなどしませんから大変です。右往左往するうちに、30分以内に新幹線は平常運転に戻るとの情報が入り、再び新幹線に戻りました。

  駅の構内でウロウロしたおかげですっかり酔いが回りへとへとでしたが、酔眼でも列車が姫路を出たのは23時20分過ぎだったと確認しています。ええ、何とか新大阪へ着きました。車内放送は「113分の遅れですみません」といっています。時計を見ると長針は50分頃を指しており、特急料金を払い戻さなければならない遅延120分のわずか数分前です。おもわず「やるなあ〜」。ホームで朝日新聞の記者から取材を受けました。記者がこの人はと選んだのですから、それほど酔ってはいなかったのでしょうね。とにかく、情報開示の弱さを含む対応のまずさ、それでいてリミット数分前に到着させる要領よさなどを5〜6分間話した覚えがあります。

  タクシーに乗るつもりで改札口に行くと、びっくりしました。何と30〜40人が、駅員に詰め寄っているのです。要約すると、@途中ほとんど情報が開示されなかったAそれでいて、わずか7分の差で特急料金の払い戻しはしないB交通手段が多数ある昼間だったら我慢できるが、カレンダーの日付が替わったこの時刻、自腹のタクシーしか足はないではないか−などです。ある中年サラリーマンは、「和歌山までタクシーで帰るといくら掛かると思いますか」と泣きそうな顔で訴えています。それなのにJR窓口では若い女性駅員にまかせっきりで、これも泣きそうになって「規則ですから、規則ですから」を繰り返すばかりです。思わず「渇!」です。

  近くの男性駅員に「あの娘さんが可哀想と思いませんか。責任ある助役さんなどを呼んできてください」と、どこまでも紳士としての姿勢を崩さず頼みました。しかし腹の中は「姉ちゃんが可哀想やで。助役かなんか、責任者を連れてこんか!」の心境です。数分で飛んできた助役さんも、とにかく規則ですからを繰り返すだけ。10人近くは帰りましたが、皆さんの怒りは治まりません。10分近く押し問答するうち、突然若い駅員が飛んできて助役に耳打ちです。助役の顔はぱっと明るくなり「特急券分お支払いします」と。どこで、何故急転したか定かではありません。2940円の特急代金の払い戻しを受け、6500円ほどのタクシー代を払って家に辿り着くと時計は午前1時半を指していました。ところが、そこから悲劇が始まったのです。

  鞄と共に持っていた、岡山銘菓や知人宅でいただいた果物などを入れた紙袋が無いのです。ただ悲劇はこれではありません。知人には悪いですが、「ああ、姫路で慌てたから忘れたのかな」程度で済みます。実は家についてやっと、口の中の不自然さに気がついたのです。そうです。半年の治療を終えて、3カ月ほど前に28万円支払って作ってもらった部分入れ歯がなくなっているではありませんか。銀製のわずか5センチほどの大きさです。おそらく車内で口角泡を飛ばしていたときか、はたまたワインのせいか…。

  オヤジの人生、この数十年間にJR車内を始めとした忘れ物や落し物は、携帯電話数台、カード入りの財布数個、メガネ、鞄、傘、本等々と数え上げたらキリがありません。必ずアルコールが絡んでいます。その度に30数年間連れ添うカミさんは、ぶつぶつ言いながらもカード会社、JR拾得物係り、果ては警察などに連絡の手伝いをしてくれましたが、今度ばかりは様子が違います。「まさか自分の口の中のものを忘れるとは、この人!」の心境でしょうか。ぽそりと「次は命を落とすよ」と言ったきり、口を利きません。もちろん、いろいろ拾得物係りなどに連絡しましたが紙袋も「28万円の部分入れ歯」も見つかりません。
もうやだ〜(悲しい顔)

 「薫風」どころか、いま口の中をスースーと透き間風がはしります。嗚呼!
きょうから全国的に天気が崩れています。


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2010年05月22日

「大阪の橋今昔」C栴檀木橋―江戸初期から大阪経済の盛衰を直視

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橋上から遠く生駒山系を望む。栴檀の木のモチーフ。明治初期(写真左側)に慰霊塔があった。その後に中央公会堂が建つ

最近はあまり見ませんが、生まれ育った田舎にはあちこちに栴檀の木がありました。「栴檀は双葉より芳し」とは程遠い凡人育ちで、“栴檀坊主”と呼ばれる楕円形の実をポケットにいっぱい入れ、投げ合って遊んだ思い出があります。
わーい(嬉しい顔)

橋の側に栴檀の大木があったとして名づけられたとされる「栴檀木橋」(せんだんのきばし)。御堂筋と堺筋のほぼ中間にあって船場のド真ん中を貫く三休橋筋は、この橋がスタート点となります。江戸初期、船場から中之島の蔵屋敷へ行き来するために土佐堀川に架けられました。ちなみに、江戸時代には橋から船場辺りまでを栴檀木橋筋、現在は笠屋町といわれる島之内辺りを三休橋筋と呼んでいたそうです。

当時、橋上から土佐堀川に沿って東側に目を向けると遠く生駒山系を背景にして大阪城があり、また天満橋、天神橋、難波橋の三大橋が望めたとされています。今は北浜のビルがさえぎって大阪城など到底望むことはできませんが、天満橋のOMMビルと遠く生駒山系などははっきり確認できます。明治18年(1885)の淀川大洪水でこの橋を始め中之島に架かる多くの橋が流され、しばらくはこの橋も姿を消していました。

再び登場したのは大正3年(1914)です。以後昭和10年(1935)に一度架け直され、さらに昭和60年(1985)に再度改修されたのが現在の姿です。つまり高欄に栴檀の模様などを飾って、レトロな中之島中央公会堂、府立図書館、そして大阪市庁舎などへの導線となる現在の栴檀木橋は4代目となります。橋の長さは86.4b、幅15.74bです。

ところで橋のたもとに、初代、大正期の2代目、昭和初期の3代目の橋の写真がそれぞれ置かれています。そのうち明治10年頃に撮影したとされる初代の橋の北詰、現在の公会堂が建っているところに、高さ25bほどの八角形の塔が写っています。これは西南戦争の戦没兵士を追悼するために、大阪鎮台の将校たちが建立したものだそうで、西南戦争時、大阪は鹿児島へ兵を送る拠点であり、また臨時病院も置かれていたとのことです。「明治紀年標」と呼ばれたこの塔は、明治35年(1902)に大阪城外に移されました。

明治時代、軍の慰霊の場だったこの地に大正7年(1918)、中央公会堂が誕生しました。北浜の風雲児と呼ばれた例の相場師・岩本栄之助が父の遺産と私財を合わせた100万円を寄付、大正2年の着工から5年の歳月をかけて完成したものです。ただご本人は相場の失敗で大きな損失を出し、公会堂の完成をみないままに自殺したそうです。

栴檀木橋は江戸の初期からきょうまで、天下の台所・大阪の盛衰をじっと見守ってきたのでしょうが、ブログ子にとってもこの橋は忘れることができません。40年近く前、インターネットはもとよりFAXもまともに普及しておらず、堺筋本町にあった会社から南森町の印刷工場に毎日原稿を運ぶのが新入社員の仕事でした。当時の会社の方針は、自転車は危ないから電車に乗って運べでしたが、時間との競争が日刊紙の第一課題、地下鉄に乗っていたのでは仕事になりません。かといっていつも自腹でタクシーは使えず、結局会社に無断で中古の自転車を買って走りました。
信号

通常、自転車で20〜30分かかるところを、10分以内で飛ばすのです。確か往復15分前後が最短記録でした。会社から三休橋を北上してこの栴檀木橋を渡り、中央公会堂を半周。堂島側に架かる鉾流橋(ほこながしばし)を通って、天満警察と大阪高裁・地裁の間をさらに北上して右折。天満天神の鳥居がある通りの阪神高速下を潜り抜けると印刷工場に着くのです。信号はほとんど無視ですが、唯一この栴檀木橋がちょっとした坂道でした。行きも帰りも言ってみれば胸突き八丁の坂で、いまもそのしんどさは忘れることができません。この橋は、オヤジのサラリーマン生活の第一歩をいつも見守っていてくれたのです。
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2010年05月21日

「晴れの国」岡山の繊維産業

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式典で挨拶する河合理事長。眼下に広がる瀬戸の多島美と多橋美

岡山県は県南の倉敷・児島地区と県西の井原市を中心に、昔から繊維産業が活発です。学生服王国であり、国産ジーンズ発祥の地であり、このほかユニフォームやカジュアルなどを手掛けるアパレルが多数あります。また井原は、藍染の伝統を生かしてデニムを生産する織布業者が健在です。県下のアパレル企業で組織され、繊維産業をけん引する「岡山県アパレル工業組合」が一昨日の19日、創立50周年の式典とパーティを倉敷市内のホテルで開きました。
 
150人強の出席者を前に、河合達朗理事長は「幾多の嵐の中で、組合員数はピーク時の192社から94へと半減しているが、常に時代の変化に対応して事業展開するというDNAは今も健在だ。安い輸入品との差別化で生き残りを図る」と決意を語りました。また来賓を代表して中国経済産業局の長尾正彦局長は、世界的に見ても瀬戸内海の「多島美」「多橋美」は傑出しているとし、ここで育まれた感性が確実に岡山県繊維産業のモノつくりに生きていると紹介、更なる発展を呼びかけました。朝から降っていた雨もパーティが始まるころにはあがっており、会場となった鷲羽山のホテルからは眼下に、その多島美と多橋美を堪能することができました。
 
ところで岡山では、江戸期から良質の綿花が栽培されていました。明治に入るとこれを使っての紡績、撚糸、織布、さらには染色や縫製までの一貫体制が整い、全国でも有数の繊維産地となりました。明治から大正にかけての主力商品は足袋で、一時は全国一の生産量を誇っていましたが、全国的に競争が激しくなり、岡山の各企業は徐々に被服分野への転換を図ったのです。とりわけ活発になったのが、厚地織物の生産・縫製という特徴を生かした学生服の生産でした。早晩、和装から洋装に替わるとの先人たちの決断が大きかったと思いますが、これを後押ししたのが大正12年の関東大震災でした。和装では動きにくく、火が広がりやすいとの教訓から、一気に洋装化が進んだのです。いってみれば関東大震災は、日本のアパレル産業にとっては大変革の契機となったのです。

 昭和に入ると、岡山の学生服は安価でしかも強いと大好評で、実に全国の9割を生産するという学生服王国になりました。体操用の体育衣料を含め学生服は、合格発表から入学式までの短期間に納入するというクイック・レスポンスが要求されます。各アパレルは一貫体制など独特のノウハウを発揮してこれに対応し、また綿からポリエステルやナイロンなど合繊素材の投入などにも積極的に取り組んできました。ピークは団塊世代が詰襟を着用した昭和30年代から40年代でしょうか、年間1000万着の出荷量だったそうです。その後、少子化の進展や制服の自由化という逆風によって、現在400万着台まで減少していますが、それでもカンコー、富士ヨット、トンボなどなじみのあるブランドで知られた大手3社を中心に約50社の学生服アパレルが頑張っており、現在も全国生産の7割を占めています。 

 ジーンズは先述したとおり国産品の発祥の地で、織布、縫製だけでなく染色や洗い加工などの一貫体制が整っています。最近は一本数万円もするプレミアムジーンズや手作りジーンズを手がけるアパレルも増えており、児島地区内ではジーンズショップを一堂に集めたジーンズストリート計画も進んでいます。またオフィスユニフォームや作業着などの生産も、隣の広島県と並んで活発です。トビ服など現場作業服を手がけるあるアパレルの商品は、かつて瀬戸大橋を工事した際に「ここのトビ服を着用している職人は、一切事故にあわない」という神話があったそうです。

各繊維企業の経営トップは現在2代目、3代目となっていますが、比較的事業の継承も順調に進んでいるだけに、中国品が日本の繊維市場を席巻する中にあっても、今後引き続き生き残りが図れるはずです。「晴れの国・岡山の繊維産業よ永遠に」の心境です。
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2010年05月20日

「3つのナショナリズム」とは

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  どうも今週は中国の話ばかりになりそうです。ただそれほど今の日本は、中国との関係抜きに語ることができない状況となっています。17日付けで報告しましたが先週土曜の15日、大阪市内のホテルで日中友好協会の加藤紘一会長(衆院議院)が講演しました。
映画

 2007年8月に、故平山郁夫前会長の後を継いで会長に就任した。単なる名誉職ではなく、本気でやっている。大学時代から中国をライフワークとしてウオッチしようと考えていたからだ。

 最近、若い世代の人たちと話す中でいつもショッキングなのは、中国を好きな人があまりいないということだ。例えば新婚旅行の行き先を訪ねると、多くの人がハワイやグアムを挙げる。中国には北京、上海、蘇州、広東などいろいろ素晴らしい地があるが、まだまだ肩ひじを張っていく国なのだろう。また外国人を好きになり、恋に落ちるとしたらどこの国の人がいいかと聞くと、圧倒的に米国とスイスで、北朝鮮はもちろん中国人もパラパラしかいない。この壁を乗り越えることが当協会の重要な任務だが、やはり長年の歴史や文化的な違いが障壁となっている。

 近いがゆえに、無造作にやっていることも意外と壁になっている。例えば「先生」という呼び方。中国ではあくまで「○○さん」だが、それを日本のパーティで無造作に踏襲するから困る。温家宝首相など要人は当然として、弱冠25歳の通訳嬢までも「○○○先生です」と紹介する。これが日本の人にとっては、何か媚びているようで面白くない。「○○○さんです。こんにちは」でどうしてだめなのかと、いつも思っている。

 それとやはり、歴史的問題が根強い。日本はかつて、中国から頼まれもしないのに中国に押しかけ、その数は300万人、400万人、あるいは1000万人と定かではないが多くの中国人が犠牲になった。痛めつけた方は忘れても、痛めつけられた方は余程のことがないと忘れることはできないし、子供や孫にまで引き継がれる。もちろん日本人も、下級兵士などは命令されて行動しただけで、ごくひと握りの人の指揮によるものだ。個人的見解だが、B級戦犯とされた人もある面で指揮された立場に属す。だからA級戦犯が合祀された靖国神社に、総理、外務大臣などの主要閣僚だけは終戦記念日に行くべきではない、行くなら他の日に行けばいいと繰り返し言っていたら、ついに自宅を右翼の人に焼かれてしまった。たとえこのような妨害は受けても、言わなければならないことはしっかり言い続ける。これが政治家の使命だと認識している。

ところでナショナリズムという言葉があるが、このナショナリズムは3種類に分けられる。まず「闘うナショナリズム」だ。とりわけ竹島とか尖閣列島など、近隣国との対立感を煽っての闘いは、政治家にとって効果のある政治行動だ。これを分かりやすく説明したい。家庭でいつも奥さんや息子、娘との疎外感を感じている頑固オヤジ、これを解消するには隣の家との喧嘩が有効だ。隣のオヤジに「境界線がはみ出している」「お宅の娘のピアノはいつもうるさい。上手になれもしないのに」などと口撃すると、「お宅に言われる筋合いはない」云々と必ず喧嘩になる。そうなるとこれまで阻害してきた奥さんを始め家族は、みんなオヤジの味方になる。ただこの闘うナショナリズム、ブーメランのようになって眉間に戻ってくる恐れがあることを忘れてはならない。

2つ目が「競争するナショナリズム」で、全世界学力テストで2位だった日本が、10数位になったのはゆとり教育の弊害だ云々。ワールドカップに機内泊だけで応援に駆け付け、ほっぺたに日の丸を張っての「がんばれニッポン」。キムヨナとの戦いに挑む浅田真央ちゃんに、涙しながらの応援。中国とのGNP競争、なんとしても経済力をつけて頑張ろう。まあこういった競争するナショナリズムは、それはそれで結構だと思うし問題はおきない。

「闘うナショナリズム」と共に今日本にとって問題となっているのが、3つ目の「誇りのナショナリズム」だろう。ナショナル・アイデンティティとも呼ぶべき国民としての誇りがなくなっているからだ。例えば米国は、いろいろ問題はあっても「物質的に最も豊かな国」を自任している。フランス人はフランス語に誇りを持つ。つまり世界で一番繊細で文化的な言語だと。スリランカは「自然に最も近い国、スリランカ」を標榜し、韓国は「夜明けのきれいな国」だと世界にアピールしている。ところが日本には今これがなく、一億総国民が「イライラ」しているのが現状だといえる。


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2010年05月19日

「此頃心斎橋筋商店街ニハヤル物」

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心斎橋筋商店街と中国人観光客(右)

 「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家 俄大名 迷者 安堵 恩賞 虚軍」で始まるのは、二条河原の落書。対して大阪・心斎橋筋商店街でこの頃流行るのは、「衣料はファストファッションやSUIT・SELECT 靴はABCマート 雑貨は100円ショップのダイソー 焼き鳥は鳥貴族やとりひめ 本はBOOK・OFF 薬や化粧品はマツモトキヨシかダイコク ちょっと疲れたら激安足ツボかマッサージ」といった具合です。かつて銀ブラにあやかり「心ブラ」なる言葉もありましたが、いま心ブラをしているのはほとんどが高校生を含む若い兄ちゃんや姉ちゃん、そして中国、韓国、台湾などを中心とした海外の人です。
プレゼント

  その中国人の個人観光客向けに発給する査証(ビザ)の条件を、日本政府は7月1日から大幅に緩和します。富裕層にとどまっていたものを、広く中間層にも広げて海外旅行熱が高まる中国からの観光客の誘致を加速しようとするものです。この間の経緯は、まず2000年から、15日間滞在できる観光ビザが解禁されましたが、あくまで添乗員随行の団体旅行に限定されていました。それが昨年の7月から個人にも解禁となり、年収25万円(約340万円)以上の富裕層になどに限定して査証が発行されるようになったのです。ちなみに昨年7月から今年3月末までにこのような条件下で16,000人の中国人が来日していますが、これまでに不法滞在などを狙った不明者はゼロです。

そこで今年7月1日からは、@VISA、マスターなどの大手クレジットカード会社発行のゴールドカードを所有しているか、年収約6万元(約80万円)以上の収入があるA官公庁や大手企業に勤めている――などが発給の要件と、緩和されました。また対象者の家族単独の旅行も認められます。これによって従来は北京、上海、広州の3カ所が査証の発給窓口でしたが、新たに重慶、瀋陽、青島、大連とすべての日本の在外公館で受けることができます。

昨年の中国の都市住民1人当たりの年間可処分所得は約1万7千元(約23万円)とされている中で、当初はこの7月1日から年収3万〜5万元(約40万〜67万円)の層をも対象にするとの予測が流れていました。この層は現在急速に増えて、既に2億〜3億人近いと推測されています。しかし外務省は、今回の緩和だけでも対象者は10倍以上になると試算しています。

ところで観光庁によると、昨年1年間に中国から日本に来た団体・個人旅行客は101万人です。一番多いのはもちろん東京ですが、次いで東京の周辺、大阪と続きます。実はその次が北海道で、京都や広島より中国観光客が多いのです。雪や温泉、大自然なども人気ですが、北海道ブームに火をつけたのが例の道東中心にロケが行われた中国映画「非誠勿擾」(「狙った恋の落とし方」)です。中国で大ヒットし、日本でも今年に入って順次全国公開されました。ヒロインが海に向かって飛び込み自殺する断崖絶壁には、連日中国観光客が多数やってきて、ニコニコしながらヒロインのまねをしてカメラに収まっている姿を、よくテレビなどが取材しています。

また富裕層対象に、別荘やペンションの発売、医療観光も注目されています。とくにビザ発給条件の緩和で、最も利益を得るのは日本の医療観光だと予想されています。例えば大阪のある予防医療センターは、がんを早期発見する先進的設備を持っている関係で各国から医療観光客が増えています。とくにそういった設備の少ない中国での人気が高く、昨年7月の緩和以降、検診のために日本を訪れる人が漸増。今年は100人の中国人観光客ががん検診を受けると予想されています。他の医療機関も含め、医療観光の費用は40万円から60万円とそれぞれ異なりますが、たいしたものです。
病院

前述したように今回、急増する年収3万〜5万元(約40万〜67万円)の層までは緩和しなかったために、中国人の「心ブラ」層が今夏激増とはならないでしょう。しかし早晩、この層も対象となるはずです。新「心斎橋筋商店街の落書」は、どのような内容になるのでしょうか。
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2010年05月18日

箸休め―「靱のバラは今が見ごろ」

oQ.jpg.jpg 毎朝通勤途上に、靱バラ園に立ち寄ります。先週の土曜と翌日曜日がバラ祭りでしたが、その時はまだつぼみも固く、香りももうひとつでした。実はきょう辺りがそれこそ「満開」で、苦しくなりそうな香りで包んでくれるのです。
 
 写真の右がイギリス産の「ジュリア」、左が名前を忘れましたがベルギー産です。
 
 この世知辛い世の中、「そんな余裕はないよ」と叱られるかもしれませんが、余裕のない時代だからこそ、朝10分でも、昼15分でも、夕方30分でもたとえばバラ園に立ち寄って、「ふっと」ひと息つく時間を持つことが必要かと思います。
 
 明日から全国的に、天気は下り坂となります。
 本日のブログ、毎日前夜にアップするのですが、わずかボタンひとつを押し忘れていました。
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2010年05月17日

どうして日本は、こんなに軽い首相を次々と頂く国になったのでしょう

BQ.jpgBP.jpg佐藤栄作氏が揮ごうした石碑と、明治維新で活躍した長州志士たち(いずれも松下村塾で)

一字違いで大違いとはこのことです。「5月決着」と「5月決着」。横棒2本が上下で異なるだけで、これだけバッシングを受けるとは当の本人も分かっていなかったでしょう。いうまでもなく、鳩山首相の普天間に対する言動です。
ちっ(怒った顔)

案の定、「鳩山首相は約束違反」だとして内閣の支持率はどんどん下がっています。17日付の朝日新聞では前回(4月)に比べ、支持するが25%から21%に、支持しないが64%から61%になっています。また連休明けの7〜10日に実施した時事通信の世論調査では、支持率が19.1%と、昨年9月の民主党政権発足以来、初めて2割を切りました。支持率の1割台は、麻生内閣の退陣直前の昨年9月以来です。

時事調査の内閣不支持理由のトップは、「リーダーシップがない」「期待が持てない」「首相を信頼できない」の順で、逆にささやかな支持派のトップは「他に適当な人がいない」ですから、どうしようもありません。「鳩山・一郎」などと揶揄される、もうひと方に対する評価はさらにきつく、「幹事長をやめるべきだ」「幹事長だけでなく衆院議員も辞めるべきだ」がそれぞれ46.9%と34.6%、合わせて辞任を求める人が実に8割を超えているのです。

どうして日本は、重大な約束をいとも簡単に破ってしまうような首相を持つ国になってしまったのでしょう。秘書が次々と逮捕されても、自党の選挙勝利だけを念頭に居直る人を第一党の実質最高実力者に頂く国になってしまったのでしょう。だからといって、前の政権が素晴らしかったとは全然思っていません。靴下を脱ぎ棄てるように職をポイと放りだす総理大臣が2人続き、選挙を先延ばしに延ばして政権が倒れてしまった失言癖の総理大臣もおられました。これだけ軽くなった首相の座ですから、今度こそはと国民の多くが期待したはずですが、わずか8カ月でいとも簡単に裏切られてしまったのです。

ところで本来なら民主党と丁々発止でやるはずの自民党も、ぽろぽろと議員が離党し、先日の読売新聞によると2009年末時点の党員数が、100万人の大台を割り込む見通しになったそうです。衆院選の惨敗による党所属衆院議員の激減に加え、野党転落後の支持団体の自民党離れで、業界団体などに所属する職域党員が大量に離党している影響が大きいとされています。この不景気です、わざわざ党費を払って党員でいてもらうのも大変なのでしょう。

そういった中で、自民党の次のリーダーとして最近元気なのが安倍晋三さんだといわれています。この人、所信表明わずか2日後に退陣してひんしゅくを買った記憶は生々しいのですが、まだ55歳。体調も回復し、各地で政経パーティーを積極的におやりになっているそうです。まあ考えてみれば同じ長州の大先輩、伊藤博文は初代、5代、7代、10代と実に4回も総理大臣をやりました。あの世にいる祖父の岸信介氏や大叔父の佐藤栄作氏からも、「一度ぐらいの挫折がなんだ」と叱咤激励が飛んでいるのかもしれません。
新幹線

この国はどこへ行くのでしょう、「吉田松陰先生教えてください」。今日も萩の松下村塾には多くの観光客が足を運んでいます。
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日中友好の話題を三話

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写真右から「はぐれコキリコ」を歌う成世昌平さん、パーティ会場で程永華大使(左)と加藤代議士、「地球と握手」をアピールする大阪芸大の学生(左のオブジェが最終的には3メートル近くに)、 

先週末の15日に大阪市内のホテルで、大阪府日中友好協会が創立60周年記念と3月から駐日本大使に就任した程永華氏の歓迎を兼ねたパーティがありました。第一部では日中友好協会会長で衆議院議員の加藤紘一氏の講演などがあり、第二部がパーティでした。加藤氏の講演要旨は後日紹介するとして、ここではパーティの模様とちょっとした話題を拾ってみました。
イベント

 成世昌平という歌手をご存知でしょうか。昌平という名からも明らかなように、るんるん「花街の母」などの作詞で有名な、もず昌平氏の弟子です。代表作のるんるん「はぐれコキリコ」は、かつて日本レコード大賞作曲賞などを受賞し50万枚のロングセラーとなっています。歌謡曲と民謡の垣根を越えた歌手としてNHKなどでも時々出演しており、還暦目前ですがハイトーンボイスでなかなかの歌い手です。

 その彼が3曲ほど会場で歌いましたが、うち1曲の「明日はあるさ君の掌に」は6月4日に上海万博を記念して中国・江蘇省の周庄水郷で開かれる「日中歌謡ショー」の開催記念曲だそうです。もず昌平氏が作詞し、作曲は中国ポピュラー音楽界では超有名な谷建芬(草冠に分)さんです。ちなみに谷さんは大阪生まれで、現在中国音楽協会の副主席を務めており、1,000曲を超す作品を生み出すとともに50人強の人気歌手を世に送り出しているそうです。この2人が作詞・作曲したるんるん「明日はあるさ君の掌に」を成世さんと中国の京劇俳優、京胡演奏家の呉汝俊さんがジュエットします。呉さんは新京劇「楊貴妃と阿倍仲麻呂」「武則天」などの女形主役を演じ、5年ほど前にNHKが正月に放送した「大化の改新」にも出演していました。

 大阪芸術大学が主催して、9月20〜22日に上海万博日本観で市民参加アート「地球と握手in上海万博日本館での出会い」を開きます。地球と握手とは世界中の市民が交流・発展・平和を求めて、土(地球)を握り(握手して)、そのオブジェに自分の名前を刻むわけです。これを積み重ねて高さ3メートル近くの大型オブジェにして万博会場に飾り、将来は上海市内に日中友好のシンボルモニュメントとして設置しておく計画を持っています。10センチほどの粘土を3つに千切ったものをぎゅっと握り締め、そこに自分の名前を記入したオブジェを日本各地で集め、またのイベント期間中に日本館のステージでワークショップを開いて、実際に来場した各国の人にも握って名前をサインしてもらう試みです。世界中の人がサインして作ったオブジェの中から、自分の名前を見つけ出す喜びもまたあるでしょうね。

 さてパーティでは大阪市の平松市長などが挨拶しましたが、平松市長は日中交流で一番大事なのは民間交流だとし、大阪には長い歴史の中で民間交流が脈々と引き継がれていると強調しました。また上海万博に、大阪の高校生35人を帆船「あこがれ」で送り込み中国の高校生と交流させること、また本人も7月28日の「なにわ」の日には橋下知事と上海で河内音頭を踊ると確約しました。

留学時代も含め今回で5回目の日本駐在となる程永華大使は、日本滞在が合計20年近くとなり青年になってからは日本での生活のほうが多いと紹介、「唯一残念なのは大阪弁を学んでいないこと」と笑わせつつ、きわめて流暢な日本語で挨拶しました。程大使が強調したのは日中交流が単なるスローガンにとどまらず、中身を伴うには政治、経済、人文の3分野での双方の努力が不可欠だという点です。程大使の発言要旨は次の通りです。

まず政治では、いろいろな問題があっても相互理解・信頼が重要で、その際ポイントとなるのは両国が「隣国」だということです。引っ越そうと思っても引っ越せない、お互いにとって「隣国」は変わらないということを基盤に置いて交渉を進めます。2つ目の経済に関しては、両国貿易の急速な拡大が象徴します。昨年の日中貿易額は2,288億ドルに上り、日本の対外貿易全体の20.5%を占めます。2007年以降、日本にとっては米国を抜いて中国が第一位の貿易相手国となっているのです。70、80年代のわずか5〜8%のシェアを考えると隔絶の観があります。中国にとっても3番目の貿易相手国です。それと対外投資という点で日本は引き続き対中投資積極的ですが、最近中国からの日本投資も始まっています。この件では、銀座に中国企業の大きな広告が掲載されて一部の人から批判されましたが、今後も中国の対日投資は少しずつ増えるはずです。双方向の交流促進という意味でも、(中国の対中投資を)冷静に好意的に受け止めてください。

3つ目は人や文化の交流です。一番はっきりしていることは、世界の中で国として漢字を使うのは日本と中国の2国だけだということです。平松市長の話でも出た青年交流で、よく日本の高校生が中国の家庭でホームステイをします。最初は15日ほどのステイに対し「日本語は分からない」と多くの中国人がしり込みしますが、「筆談が可能」ということで引き受けてもらいます。するとどうでしょう、最後の日は抱き合って涙、涙のお別れになるのです。お互いに漢字を通して人と人として、心の交流までに高まるのです。これができるのは、中国と日本しかありません。

 この場で多くの友人の皆さんのお顔を拝見し、非常に心強く感じました。今後、自信を持って任に当たることができます。
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2010年05月16日

「あらおったん なにしてんのと 妻が言う」

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こんな時代もありました。今日は2人でツツジ鑑賞の散歩をしますか

 「卒業が 危ない夢を 古希で見る」―まだ古希までにはだいぶありますが、そうですか、古希になっても見るのですか。還暦を過ぎてもまだ見ているのは自分だけかと思っていましたが、古希になっても見るということは死ぬまで一生うなされるということですね。それほど大学時代は勉強をせず、「卒業」という言葉がこの年になってもトラウマのように脳裏にこびりついています。
ふらふら

 さらに古希にかかわる川柳で、「4時起きで 朝刊待つを 古希という」―なるほど、確かに今は「5時起きで 朝刊読むを 還暦という」です。もうひとつ。「還暦の 人見て思う 若いじゃん」―そうは言うものの結構、「信号が 黄色で渡れぬ 年となり」の毎日です。

 高齢化社会となってますます活発かと思っていた「老人クラブ」ですが、逆に解散するクラブが増えているそうです。老人クラブは60歳以上を対象に戦後各地に生まれ、多くの自治体が補助金を出すなどの支援をしています。ピーク時の1997年には13万4千のクラブがあり、886万人が加入していました。それが2008年には11万9千クラブ、加入者も738万人まで減っています。自治体は補助金の需給に必要な会員数を従来の50人から30人に変更していますが、減少に歯止めがかかっていません。

 一番大きな要因は、高齢者の関心や趣味が多様化してきたことで、わざわざクラブに頼らずとも、ボランティア活動などを含め自分で活路を開く時代になっているのです。また役員など、人材の確保が難しくなっているそうです。確かに、まだまだ現役世代だとの考えを持ち、また人から指導されるより自分が指導したいと思っている団塊世代は、どうしても経験豊かな古希の人などが中心の老人クラブを敬遠します。そしてなによりも、「老人」というクラブに加入することがいやなのです。まさに「年寄りと 言うな私は ヴィンテージ」の心境です。

 最近流行のなぞかけです。
「ベテランの夫婦とかけまして、治りかけの風邪と解きます」
その心は「熱は下がったものの、セキは残っている」
こうなると「つまずいて よろける僕を よける妻」の関係なのでしょうか。

「偕老同穴の契り」を結んだふたりですから、いつまでも仲良く熱々でいたいものです。そんなご家庭に、今日の言葉です。
黒ハート

「美味しい野菜料理のコツは、料理をしている時に野菜にたずねることです。どれだけ塩が欲しいか、どれだけ醤油が欲しいかと」(精進料理で有名な滋賀県大津市にある月心寺の村瀬明道尼)
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2010年05月15日

「大阪の橋 今昔」B港大橋―大阪港のランドマーク

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港大橋の全景(写真右)、橋梁に使われた鉄材の実物など(同左)
 信濃橋、本町橋とも、橋としての本来の務めはすでに終わっているようですが、今回の港大橋は大阪湾沿岸の交通の要衝であり現役バリバリです。その真っ赤な橋梁は、大阪周辺の高い場所であればどこからでも見えるはずで、まさに大阪港のランドマークと言ってもいいでしょう。住之江区南港に住んで30年近くになりますが、毎朝起きると目の前に浮かび上がり、またかつては地下鉄の弁天町や朝潮橋との間を市バスで往復したり、今では本町からタクシーで帰る際に必ず渡るなど、一番身近な橋といえます。

 完成したのは36年前の1974年で、大阪港天保山と南港・咲洲間を結ぶその長さは980メートルです。ドイツ人のゲルバーという人が考案したトラスト方式といって、橋桁と継ぎ目とからなる構造の橋です。もちろんこの方式では日本一の長さですが、35,000トンもの鉄鋼材がよく吊りもせず浮かんでいるなあと、いつも思っています。上下二層のダブルデッキで、上は16号大阪港線、下は湾岸線として利用されており、いずれも阪神高速道路に属します。

  35,000トンの鉄骨と共に驚きは、最大支間長の510メートルです。支間長、つまり橋を支える支柱と支柱との間の長さで中央径長とも呼ばれますが、なんと510メートルもあります。もちろん日本一で、世界でも第3位です。これは4万トンの大型コンテナ船が下を運航できるようにしたためで、海面から橋桁下まで最低でも50メートル、最高部だと68メートルもあります。南港側の橋の下に「三角公園」という緑地地帯があり、むかしはよく家族連れで出かけた公園ですが、そこに礎石などが置かれています。そのひとつに、写真のように橋梁部材の実物あります。なんと橋中央部付近の橋梁を構成する部材の寸法は、縦180センチ×横155センチ、鉄板の厚さは縦7.5センチ×横3.6センチとびっくりするような鉄材です。これがあるから35,000トンもの鉄材が支えられるのでしょうか。

  ただ1995年の阪神大震災では多少の損傷が発生したそうで、その後上町断層を震源とした地震を想定して耐震補強がされています。とはいえ年1〜2度ですが、強風の際には通行止めになります。何しろ海面から50メートル以上の高さです、海風がまともに襲ってきますから軽い乗用車などはまたたく間にハンドルを取られてしまいます。題名は忘れましたが、黒川博行の本で、犯人が港大橋から飛び降りるシーンがあり、現実に飛び降り自殺を図った話も聞きました。1997年に地下鉄大阪港からコスモスクエア駅の間に海底トンネルができたため、港大橋経由の市バス運行は無くなりましたが、かつて仕事に疲れて最終バスで港大橋を渡っている時、「ああ、ここから飛び降りたら楽だろうなあ」と、瞬間思ってしまうほどの不思議なスポットでもあります。

  今は盆やクリスマスを始め年に数回、橋全体がライトアップされており、今月の29、30日にも午後7時から10時までライトアップされるそうです。想像してみてください、大阪港の海面70〜80メートルの高さに1キロ近い長さの真っ赤な虹が浮かぶ世界を。

  ただ昼間は、中国や台湾などアジア中心に世界中から入ってくる大型コンテナ船が橋の下を悠々と通り抜け、橋の上は船から降ろされたコンテナを積んだトラックがびゅん、びゅん走る。港大橋はそんな橋なのです。


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2010年05月14日

靱公園のバラ園はいま最高です

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 3000株のバラが咲き乱れ、芳しい香りが充満する靱バラ公園

るんるん「バラをバラをバラを下さい 百万本のバラを下さい…」
るんるん「バラが咲いたバラが咲いた 真っ赤なバラが…」
るんるん「君は薔薇より美しい…」
るんるん「君はとっても薔薇薔薇…」

ここにあげたのはほんの一例ですが、シャンソン、カンツォネ、日本の歌、ロシアの歌、アメリカの歌、クラシックなどなど、とにかくバラにまつわる歌は実に多彩で多数あります。その数200種近いとされる実際のバラの品種に匹敵するかもしれません。

ことほど左様に、バラは全世界の人に愛されています。花ことばも大変な数です。一般的には愛、恋、美、幸福、乙女、秘密、無邪気、清新などですが、白、黄、赤などそれぞれ色によって言葉が違います。例えば白いバラは、心から尊敬します、清純・純潔、処女など、対して黄色のバラは薄らぐ愛、別れよう、不貞、嫉妬など。さらに赤はあなたを愛しています、貞節など、そしてピンクのバラは美しい少女、上品、気品といった内容です。

さて6月の誕生花とされるバラだけに、いま各地の公園でも花屋さんの店頭でもきれいに咲き乱れています。大阪市内の公園では中之島公園、鶴見緑地、長居公園、そして靱公園が有名です。ただし長居の植物園は有料です。それぞれ特徴がありますが、2006年の世界バラ会議で福山市のバラ公園と共に優秀庭園賞に選定された靱公園のバラ園がやはり一番だと思います。何と言っても、大きな緑の木立に囲まれた庭園というところが素敵です。つまり中之島などと違い、周囲と完全に隔絶された都会のオアシスそのものです。

靱バラ園には160品種、約3400株のバラが植栽されています。毎朝、寄り道してバラ園で一服するのですが、それは見事です。前夜の二日酔いなど吹き飛ばしてくれます。その靱バラ園で明日15日から2日間、バラ祭りが開かれます。ここでは秋にも「バラと彫刻展」が開かれますが、地元の西区役所が仕切る5月の方が、「靱公園親子自然探検ツアー」や「公園愛好家たちのトークライブ」、野外コンサートなどのイベントもあり賑やかです。

もっともバラ祭りにこだわらず、平日の昼間に職場の仲間と弁当を開いたり、夕方には恋人とバラを眺めた後に近くの洒落たレストランでワイングラスを傾けるのもお洒落かと思います。彼女の胸に、そっと赤いバラか白いバラを一輪。必ずや君の想いは届くはずです。ただし、間違っても黄色のバラを渡してはいけませんよ。彼女から突然、往復ピンタをくらいますから。
失恋

青春は二度と返らないと思ってはいても、毎朝バラを見るたびに「ああっ」と思わずため息が出るのです。
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2010年05月13日

日本は「ユニフォーム」大国

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上海万博大阪館のアテンダント・スタッフのユニフォーム(写真左)と、先に日本テレビ系の昼の番組DON!でも取り上げられた専門雑誌「ユニフォームPlus」5月号の表紙(同右)

「ナッパ服」。今の人にとってはあまり聞き慣れない言葉でしょうが、ユニフォームは戦前、菜っ葉のようによれよれになることから、こう呼ばれていました。戦後になって、ユニフォームアパレルなどが作業着という名前を普及、さらにワーキングウエアやユニフォームとして今日に至るのです。
ビル

日本でユニフォームが飛躍的に伸びたのは、なんと言っても1970年の大阪万博です。色彩鮮やかなユニフォームをまとった各パビリオンのコンパニオンたちは、多くの来場者の目を引き、また羨望の的でした。以来、日本の高度成長とも相まって、各企業は職場にユニフォームを積極導入したのです。

ユニフォームといっても、その内容は実に多岐にわたっています。最も一般的なのがオフィスユニフォームであり、また製造現場などでの作業着です。さらにホテルやレストラン、金融機関、医療・介護現場でも欠くことができません。警察や自衛隊などを始めとした官公需もあります。最近ではパチンコやゲームセンターなどアミューズメント業界の採用が増えています。広義に考えれば、学校の制服や体育衣料などもユニフォームと位置付けられます。

世界的に見て、日本ほどユニフォームが普及している国はありません。バブル崩壊後やや後退しましたが、それでもユニフォーム業界としては全体で年間6,000億円前後の売り上げがあります。なぜ日本でユニフォームが普及したかですが、ユニフォームはそれぞれ働く人にとって、仕事や現場への誇りを持たせる力があるからです。組織力で戦後成長してきた日本企業にとって、ユニフォームは確実に一体感が共有できるなど、単なる着衣にプラス・アルファをもたらします。

あるユニフォームアパレルのトップが話していました。「ユニクロ1社の年商7,000億円に対し、我々業界全体で6,000億円前後と確かにちっぽけな業界だ。しかしたとえユニクロがなくても誰も困らないが、ユニフォームがないとトヨタも新日鉄もイオンもみんな困るはず。製造現場は必ず作業服が必要だし、流通業界にとっても不可欠だ。ある面、自分たちが日本の産業の発展を支えてきたという誇りを持つべきではないか」と。

もっともオフィス現場でも、女子社員など意外とユニフォームに好印象を持っています。私服だと余分の衣料費がかかるからです。特に若い女性は衣服への競争心が強く、無理をせざるを得ないのです。また学校でも制服廃止論がありますが、そうなると親御さんはたまったものではありません。全員が全員、ジーンズとTシャツに満足するわけがありません。

ところで13億人を抱える中国ですが、目下軍隊や官公庁関係が中心で、一般企業や学校でのユニフォーム・制服採用はまだまだ途上です。それでもホテやレストランなどのサービス業、一般企業でも外資系企業ではボツボツ普及しています。そういった意味で、大きく様変わりすると予想されているのが今回の上海万博です。大阪万博同様、各国の華やかなユニフォームを着用したコンパニオンたちのオンパレードです。これを機に、一気に中国でユニフォームビジネスが拡大するはずだと、日本はもとより中国のユニフォーム業界も期待をかけています。

その上海万博では、日本館や大阪館が人気を博しています。写真は、大阪館のアテンダント・スタッフのユニフォームのうち、長袖用です。デザイン・製作して提供した大阪のユニフォームアパレル、サンリット産業の小池俊二会長は「環境先進都市“水都大阪”にちなんで、美しく豊で絶え間ない『水の流れ』を表現した」と言い、お客様の反応は非常にいいそうです。また「間違いなく日本同様に、中国のユニフォーム需要は確実に拡大する」と予測します。
ホテル

あらためて周囲を見渡すと、日本がいかにユニフォーム大国であるかがはっきり分かるはずです。
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