2010年02月28日

お蔭様で2ヵ月連続、あらためて「ブロ中」宣言

28sinn.JPG朝の散歩コースから大阪港を望む。前方右が海遊館、左の奥がユニバーサルスタジオ

ブログをスタートしてほぼ2ヵ月が経ちました。アクセス解析を開いてみると、2月上旬の訪問者は1日平均30人ほどでしたが、中旬になると37人、そして下旬には45人と結構増えています。1日50人を超したのが3回あり、一番多かった日は61人でした。
この日の増加には意味があります。実はある大手企業の記者会見に出て、ブログに書いてしまったのです。記事自体、内容的にはなんら問題はなかったのですが、「会見には特定企業、特定媒体紙としてお呼びしたのに、その媒体紙以外で掲載するのはルール違反」だとしてその会社から抗議され、結果的にはその日のブログを削除したいきさつがあります。
それにしても、その企業に関する情報は毎日、ネット上で莫大な量が発信されるはずですが、どうして吹けば飛ぶようなウツボ親父のブログが引っかかったのか今もって見当がつきません。ただ掲示板やツイッターなどと比べ、ブログは検索エンジンにかかりやすいとされており、現実にグーグルで「ウツボおやじ」を検索すれば、合計12万7千件ある中で一番トップにこの「ウツボおやじの独り言」が出てきます。またYAHOOなどでその日、その企業やトップの名前を検索しましたが、確かに上位の目に付くところに「独り言」の記事がありました。
毎日休むことなくアップしているためでしょうが、今回の事件を戒めとして今後に生かしたいと肝に銘じています。
人からよく言われます。「毎日、それもあんなに長文が書けますね」と。実は長文ほど書きやすいのです。朝日新聞の「天声人語」のように618文字、さらに夕刊の「素粒子」のように180文字という毎日固定されたそれも短文を書くことは至難の業であって、とても無理です。何の脈絡もなくだらだらと長文で書くから続くのです。
ただ正直、ネタに困るときがあります。月曜日は「新聞を読んで」、火曜日は「食いしん坊万歳」、水曜日は「中国情報」などと1週間のサイクルを決めて置けば楽なのでしょうが、それも何か味気なくって面白みがない。結局、当初の計画通り、できるだけ多くの人の投稿が一番助かるのですが正直、容易に原稿が集まってきません。いざとなると、不特定多数への私文書オープンは腰が引けるのでしょうか。
ただ少しだけ助かったことがあります。よく知っておられる人なら、「どうしてそんなことをいまさら」と大笑いでしょうが、本当に知らなかったのです。実は使っているブログネットは朝ラッシュで容易にアップできないと考え、毎日夜中の11時55分ごろまで準備を整え、12時ジャストに「保存する」をクリックしてアップしていたのです。たとえ酔っていても毎晩、毎晩シンデレラ親父でした。
先日、ネットの専門家に笑いながら教えてもらったのですが、何のことはない、あらかじめ「何月何日、午前0時から」で予約しておけばいつでもOKだったのです。

団塊親父に多いと思うのですが、どうも説明書を読んだりするのが面倒くさく、いやなのです。携帯も電話やメール、新幹線予約、写真、ワンセグ以外の機能は一切使いません。正直な話し、使えないのです。事務所のPCはWin7でオフィスは2007ですが、今もってXPや2003の方が便利です。また事務所の電話と携帯は接続でき「いつ事務所にかけても留守だ」と苦情を言われなくて済むのですが、説明書を読む気がしません。
それでも「新ちゃん親父」ですから、次から次へと新しいモノに手を出します。実はブログの写真用に、三洋のザクティかソニーのブロギーなどのカメラを買おうとしています。動画も容易に取り込めて小型だそうですから。

「アル中、ある中」(アルコール中毒と歩く中毒)ならぬ「ブロ中」をあらためて宣言し、自分にプレッシャーをかけます。もちろん写真は立派になるはずです。そうそう、近々ホープページの表紙を若干リニューアルして、「ウツボおやじの独り言」を目立つようしたり、海外のホテル予約のバナーなどを掲載します。それもご期待ください。

現在27日(土)の午後4時30分です。この原稿を書いて、上述のように、28日午前0時からに「保存予約」したのですが、何か手違いで27日にアップしてしまいました。あわてて削除しましたが、しばらくの時間、27日に載るでしょうね。「失敗は成功のもと」とはいえ、情けないです。トホホ
それがまた失敗。指定するの個所をチェックしなかったのです。これで3回目です。トホホのホホホ。
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2010年02月27日

箸休め−「雨上がりの大阪港」

2010022711420000.JPG 天気予報では、きょう午前中も雨模様。そこで昨日朝撮った写真を本日付けブログに載せたのですが…。雨どころか、昼には強い日差しが照り始めました。
 朝歩いた大阪港は薄曇でしたが雨上がりということもあって、六甲山系や摩耶埠頭が目の前にはっきりと広がり、遠く明石大橋や淡路島も望めます。世界的にも珍しい西に開いた良港ならではの景観です。
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「裸の王様」

2010022609380000.jpg春が駆け足でやってきそうな陽気です。自宅前の相愛大学キャンパスも昨日から雨に煙っています(写真をクリックすると拡大します)

家二人の男が一軒のエントツ掃除を終え、エントツから下りてきます。そのうちの一人はススで顔を真っ黒にしていましたが、もう一人の顔はまったく汚していません。

手(チョキ)そこで問題です。顔を洗うのはどちらの男でしょう。

手(パー)答えは、顔をまったく汚していない方の男です。顔の汚れた男は、顔の汚れていないきれいな男を見て、自分もきれいだと思います。しかし顔のきれいな男は、汚れた男を見て、自分も汚れていると思ってしまうのです。
 
  昔から「人のふり見てわがふり直せ」といわれますが、もし自分の欠点が周囲の他の人に見つけられなかったり、まただれもその欠点を指摘してくれなかったら、汚れた顔のままで生き続けなければならないのです。
  会社の経営者や組織・団体のトップ、更にはカリスマ的存在が凋落・破綻したりした際には、実は「裸の王様」であったと評されます。諫言してくれる人物を煙たがって遠ざけたり、パワハラまがいに抑え込んでしまう。その結果、周囲には太鼓持ちだけが残って耳に快い言葉ばかり聞かされ、現実を直視できなかったケースなどが少なくありません。

  経験からして、たとえオーナー会社ではなくても中小零細企業のトップを数年務めると、良いことでも悪いことでも好きなことができます。しかも周りに忠告してくれる人がいなくて、往々にして孤独です。
  それは家庭にあっても同じです。奥さんや家族の忠告を無視していつまでも暴君であったなら、そのうち悲劇に見舞われるでしょう。編集のお手伝いをしているある会社の社内報に、家族から家族へ、職場の仲間から仲間へ、それぞれ「ありがとう」の手紙が載っていました。思わずほろりとしながら、我が身を振り返ってしまったのです。

  「欠点を指摘してくれる人に感謝せよ。くれぐれも顔の汚れには注意しよう」と。
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2010年02月26日

クラシック界も「韓流」

TV昨日、大阪フィルハーモニー交響楽団の朝比奈隆さんの話題にちょっとだけ触れましたが、その大フィルと同じく在阪の大阪センチュリー交響楽団が存亡の危機に直面しています。橋下知事の指示で、大阪府からの補助金が3億9千万円から1億円に減らされ、来年の2011年度にはまったくのゼロと廃止されそうだからです。
 1大阪府内にはもともと大フィルと大阪シンフォニカー交響楽団、関西フィルハーモ二ー管弦楽団の3つのオーケストラがありましたが、大阪府が支援して芸術性の高い日本有数の楽団を設立するとの趣旨で1989年に4つ目のオーケストラとしてセンチュリー交響楽団が設立されました。現在、日本オーケストラ連盟に加盟する正会員オーケストラは24団体ですが、大阪府以外は東京都に8団体、愛知県に2団体以外に10の道府県に各1団体です。どちらかというと吉本派が多い大阪府民対象に4オーケストラはやや多い感じはしますが…。
2それでも、その趣旨に夢を託して、これまでに多くの楽団員が活躍し、レベルの高い演奏を続けています。それが突然、二階に上げてハシゴ外しですからたまりません。色々と支援する個人や団体が動いていますが、前途多難なようです。
3そういえば大阪府だけではなく、昨秋の「事業仕分け」に代表されるようにオーケストラや舞踊、演劇など文化振興への国の支援は非常にみじめです。その事業仕分で当初は、4月から始まる2010年度にも「大幅縮減」の計画でしたが、「国民の声に応じて3年間で2分の1と時期を延ばした」(文科省)そうです。それでも日本オーケストラ連盟では、10年度は約6億円の縮減となり、今年度より最大15%減になると頭を抱えています。同連盟正会員オーケストラ24団体の08年度年間支出合計は約250億円で、対する演奏収入は約130億円と半分です。この不足分を公的支援(同年度は約65億円)と民間からの支援で補います。ちなみに件の大阪センチュリーは、年間支出7億3千400万円に対し、演奏収入2億5千400万円です。他からの支援のうち大阪府の支援3億9千万円が1億円に減らされるわけですから、まさにお先真っ暗です。オーケストラは何十人もの専門家が何日もかけて練習して、わずか数時間の演奏です。確かに経済的には極めて効率の悪い芸術ですが、かといって芸術を対費用効果で計るわけにはいかないと思うのですが。

4バンクーバーで韓国の強さをしっかり見せつけられていますが、実はクラシックの世界でも「韓流」が台頭しています。官民一体の支援強化策で自国内での英才教育などを徹底しています。何しろ人口は5千万人で日本の半分ですが、2010年度の文化振興予算は2500億円と日本の2.5倍。専門家の間から、「そのうち欧米から韓国へ留学する音楽学生が増えるだろう」との声が聞かれます。日本は、スポーツ、経済、さらには文化・芸術活動まで韓国の後塵を拝するのでしょうか。

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2010年02月25日

[ 織田作之助」賞

2010022412430001.JPG 中丸さんのサイン入りの「オーケストラ、それはわれなり―朝比奈隆 四つの試練」

2009年度の「織田作之助」賞の授賞式が23日、大阪市中央区の綿業倶楽部でありました。今回、大賞を受賞したのは「オーケストラ、それはわれなり―朝比奈隆 四つの試練」(文藝春秋)を書いた中丸美繪(よしえ)さんです。中丸さんとは以前から少しだけ面識があり、お祝いのご挨拶をして、ちゃっかりサインしていただきました。
同賞は、「夫婦善哉」などで有名な大阪出身のオダサクこと織田作之助を冠にした文学賞で大阪文学振興会が主催しています。関西にかかわりのある小説やエッセイ、評論などを対象に1984年からスタートし、最初は未発表の公募新人作品が対象でしたが、4年ほど前から新人賞以外に「大賞」として単行本が対象となりました。ちなみに1986年第3回に、かつて同じ職場で編集記者をしていた福岡さだお君が「犬の戦場」という作品で同賞を受賞しています。福岡君は今も病院勤務の傍ら、こつこつと小説を書いていると聞いています。

さて中丸さんは慶応大学を卒業されJALに勤められた後、音楽・演劇関係を主としたエッセイスト、更にはノンフィクション作家として活躍されています。単行本としては処女作となる音楽家・斎藤秀雄氏の評伝である「嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯」(1997年)で日本エッセイスト・クラブ賞とミュージック・ペンクラブ賞を受賞されました。他に「杉村春子―女優として、女として」(文春文庫)や「君に書かずにはいられない―ひとりの女性に書いた四〇〇通の恋文」(文藝春秋)などの著書があります。


ノンフィクション作家としてとにかく丹精をこめて取材され、今回の受賞作も朝比奈氏ご本人のほか80余人から取材して、93歳まで現役として大フィルを率いた朝比奈隆氏の生涯を綴っています。ちなみに世界のプリマドナ、ソプラノ歌手の中丸美千繪さんは妹さんです。さらにIT関連の大手ディストリビュータ、ダイワボウ情報システムの実質創業者といえる山村滋氏(故人)のご子息のご夫人でもあります。

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2010年02月24日

アル中」と「ある中」

q.JPG
土曜日曜は、大阪南港の海沿い、こんな場所を歩いていたのです(左前方は海遊館)

  知人から言われました、「君は2つの『アルチュウ』に罹っている」と。ひとつは容易に分かります。自他共に認める「アルコール中毒」ですから。しかしもうひとつがどうしても理解できず尋ねたところ、「歩く中毒」との指摘でした。
 長年に渡る不摂生で、成人病検診でも完全な「糖尿病予備軍」を宣告されていました。そんなある日、「アルコールは適当にとりつつも、1年で体重が10キロ減る。その最大の秘訣は運動だ」との情報を聞いたのです。「これだ」と思いました。ただし走ることはできない、テニスもだめ、ゴルフは行くがあれでは無理、フィットネスやプールにも通ったがこれも「3日坊主」で駄目。そう、オヤジの選択肢は愚直に歩くしかなかったのです。

 ただ実践の前に形から入る性格ですから、“5種の神器”を整えました。まず体重計です。日々の成果をしっかり記録するため、洗面所ではなく自室に1台精巧なものを購入しました。2つ目がエアロバイク。朝一番に起きて毎日20〜30分踏むわけです。これはお恥ずかしいながら、ちょっとした失敗談があります。ネットで注文したのですが、多少酔っていたこともあり、結果的に何度も繰り返し注文してしまったのです。宅配便の代引きで1台納品してくれたのはいいのですが、その時の親切なおじさんが「残りはどうしましょう」ときたものです。「えっ」と言いつつも、さすが酔っ払いの亭主に長年連れ添った奥さん、「何台注文していますか」と尋ねると、おじさんは「あと3台倉庫においています」。解約に向けての奥さんの奮闘とオヤジへの冷ややかな目、これ以上語る必要はないと思います。
  3つ目はテレビです。そう毎朝、エアロを踏むのに退屈では続かないわけで、テレビがうってつけです。自室に用意し、おかげで、みのもんたとは朝ズバで毎朝会います。4つ目が万歩計。以前からゴルフに行くとズボンをはき替えるたびにロッカーに忘れてしまうため、安い万歩計にしていました。この際はと思いきって、ネットなどと連結でき各所の健康教室などで推奨する優れモノを購入しました。5つ目は血圧計です。ウオーキングシューズやウエアなどは基本中の基本で、あらためて触れることもないでしょう。

  これだけ揃えて3日に坊主だったら、さすがに男がすたります。やりましたよ。ウイーク・デーは朝起きて20分以上エアロで汗をかき、余裕があれば30〜40分歩く。会社に出勤する時は1駅前で降りて歩く。そして昼食後本町を歩く。足りなければ、たとえ酔っていても家に帰って歩く。最低1万2千歩がノルマです。
  土日は、2万5千歩を目標にしました。土曜日はゴルフで稼げました。もちろんカートに乗らず、大抵のブリッジ(ホール間の移動)ももちろんです。幸いなことに球がまっすぐ飛ばないゴルファーですから、右に左に、時には後ろにと、歩くことには事欠きません。ゴルフに行かない日は朝100分ほど、夕方60分ほど歩きました。もちろん、血圧、体重、歩数(それも強度別に)などなどは毎日克明に記録しました。冒頭の知人による「ある中」発言は、このような時に出た言葉で、とにかく歩くことが強迫観念になっていました。
成果は出ました。約1年で、体重は12キロほど減ったのです。ほとんどのスーツがだぶだぶで、ボタンをはめるのにしんどかったワイシャツも余裕どころか、みっともなくなりました。久しく合う人の大半が「えっ」という表情を見せ、口にこそ出しませんが「ああついに病気になったのか」と思われていたはずです。たまたまタンスの奥に残っていた20数年前のジーンズが何とはけるようになり、この話をジーンズアパレルのトップに話すと早速、お祝いだと高級ジーンズをプレゼントしてくれたのです。

  しかし「好事魔多し」でしょうか、世の中はうまくいきません。昨年末から風邪をひいてしまい、それも長引いたために歩けなくなったのです。そうなると「ある中」もいい加減なものです。もう少し暖かくなってから、1日から、15日から等々繰り延べしてしまうのです。一方で事務所開設や新年の飲み会で、もうひとつの「アル中」はますます昂進するのですから。

  さてさてその結末は。リバウンドで再び10キロ増えたのか。またのお楽しみです。


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2010年02月23日

坂本龍馬は播州産帆布ジーンズの袴を着用していた

81306024000638.jpg とにかく「坂本龍馬」がフィーバーしています。地元高知はもちろんですが、長崎、京都、東京、大阪、兵庫、山口…と、龍馬が行ったと思われる場所は、たちまちスポットが当たります。中には鹿児島県霧島温泉郷のように、寺田屋事件の時に受けた傷の治療をかねて龍馬とお龍が旅行したのは日本最初の新婚旅行だったとして、「新婚旅行の処女地『霧島』」をアピールするところもあります。
その一環ともいえますが、NHK大河ドラマ「龍馬伝」のPR用ポスターやガイドブックの表紙で主人公を演じる福山雅治が穿いている袴の生地が兵庫県の「播州織」でできているとして、話題を呼んでいます。

ご存知の方も多いと思いますが、西脇市を中心とした加古川流域は綿織物の産地として発展してきました。播州織は、織機で製織された織物にプリントや浸染で染色加工する後染め織物に対し、あらかじめ染めた糸で織る先染め織物の産地として有名で、一時はメンズシャツ地などで国内はもとより欧米などへの輸出で活況を呈していました。
しかし時代とともに中国を始めとしたアジアの業界に侵食されて、播州織産地は苦戦を強いられています。その打開策の一環でシャツ地などの薄地織物から厚地織物への転換も研究される中、産学協同事業で「播州帆布」「播州ジーンズ」が再開発されました。福山雅治着用の袴は、この「播州織帆布ジーンズ」を使ったもので、ポスターなどと共に「龍馬伝」でも、長崎が舞台になって龍馬が海援隊で活躍する際には着用されるとの情報があります。
「帆布」は綿や麻を材料とした厚地の平織物で、言うまでもなく船の帆として1700年代末期に兵庫県高砂の工楽(くらく)松右衛門が開発し、以来「松右衛門帆」として北回り廻船や東回り廻船で採用されました。並行して加古川流域の織物業が盛んになり、後に播州織として発展します。

実は坂本龍馬は1860年頃、勝海舟が進める神戸海軍操練所設立に尽力しますが、その操練所の土台となったのがそれ以前に開設されていた神戸海軍塾で、龍馬はここで塾頭を務めていました。つまりその当時、龍馬は兵庫港(後の神戸港)長期滞在したわけで、当然、至近の高砂などにもちょくちょく出掛けていたと推測できます。
一般的に当時の外国の水夫たちは帆布のような丈夫な布で服を作っており、当然、合理主義者で開明家の龍馬なら播州産の帆布に目をつけたであろうことは想像に難くありません。びっしりと締まり感のある帆布袴の足には西洋の革靴、そして懐にはピストル。なかなかどうして、様になります。

「龍馬の袴=帆布」論を証明するもうひとつの理由ですが、神戸海軍操練所解散後に、龍馬が長崎に設立した日本初の商社「海援隊」の制服や袴は間違いなく帆布素材であったとされています。
ちなみに、今回NHKに採用された福山雅治着用袴の播州ジーンズ帆布は、西脇市の産元商社「高龍商店」が製作したものです。
同社の高瀬保夫社長は「ポスターなどをお借りして、公然と当社製のテキスタイルなどなかなか言いにくいのですが、それにしても龍馬と播州織がつながっていたことは非常に興味深いですね。これを機に播州織帆布、播州織ジーンズが注目されれば幸いです」と話します。このブログでも残念ながら、福山龍馬のポスターなど掲示できません。ただ高龍商店さんのHP(http://www.takaryo.sakura.ne.jp)には色々な情報が掲載されており、高瀬社長のブログにも面白い話があります。

社長さんに確認したのですが、全然関連はないとはいえ「高(知)龍(馬)商店」。これも何かの因縁でしょうか。
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2010年02月22日

「スーザン・ボイル」と「ちあきなおみ」

2010021814280000.JPG だいぶ古くなった「ちあきなおみ」のCD(左)と「スーザン・ボイル」のデビュー・アルバム

1「2009年の世界のヒロイン」とされるスーザン・ボイルのデビュー・アルバムを最近、事務所で何度も聴いています。CDには彼女がオーディションに挑戦し、世界的なスポットを浴びた「夢やぶれて」を始め12曲が収録され、日本版ボーナス・トラックとして「Wings To Fly」(翼をください)が1曲収められています。
2彼女の美しい歌声は広く感動を呼び、動画配信サイトには全世界で3億件以上のアクセスが寄せられるなど社会現象になったそうですが、当初はそれほどとは思いませんでした。年末の紅白で聞いた時も、48歳の奇跡という話題先行だろうと考えていました。 
3しかし実際に、「夢やぶれて」や「クライ・ミー・ア・リヴァー」、普段から聴きなれた「アメイジング・グレイス」や「翼をください」などを繰り返し、繰り返し聴いても飽きがきません。たとえは悪いですが、二日酔いの身体から毒素を取り払ってくれるようなスッキリ感があります。
4「翼をください」はオヤジの学生時代に「竹田の子守唄」とAB面で出されたはずですが、そのころ赤い鳥の後藤悦治郎さんたちと多少の因縁があったこともあり、スーザン・ボイルの美声はまた違った意味で郷愁を感じます。

5とはいえ、事務所に置いてあるいろんなCDの中で一番よく聴く、つまり一番好きなのは「ちあきなおみ」です。夫の郷^治さんが亡くなった時、荼毘にふされる柩に「私も一緒に連れて行って」としがみついて以来、一切の芸能活動をやめて引退同然となっていますが、個人的には美空ひばりに匹敵する歌い手だと思っています。
61947年生まれでオヤジと同年齢です。小さいときから米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーで一家の大黒柱として歌う下積み生活。20歳を過ぎて「雨に濡れた慕情」で実質デビューし、72年のレコード大賞となった「喝采」で大ブレークしたのです。以来しばらくは紅白の常連として順調だったものの、80年代は低迷していました。しかし例の「紅とんぼ」で見事に復活し、インスタントコーヒーのCMで流れた「黄昏のビギン」など数々のヒット曲を出しています。
7とにかく、演歌、ポップス系、ニューミュージック、さらにはオヤジの好きなシャンソン、はてはポルトガルのファドまで、何でも見事に歌いこなします。その才能は女優、タレントとしても発揮され、映画やテレビで活躍しました。決して美人ではないのですが、あの「タンスにゴン」のCMなど、味のある役者でした。
8それが最愛の夫と死別して以来、一切世に出なくなったのですから。もっともテレビの特番は高視聴率で、CDの売れ行き結構あるそうです。オヤジのようにひっそりとCDで聴くファンが少なくないのでしょう。

9雨上がりの靭公園を歩く時には“雨に濡れてた たそがれの街”と「黄昏のビギン」を口ずさみ、事務所で夜遅く一人の時は角瓶を机において“カモメよ カモメよ 淋しかないか”と「かもめの街」を聴く。そして場末の酒場で熱燗を傾けたり、あまり上品でないスナックでカラオケを歌う際は、「紅とんぼ」が友になるのです。“空にしてって 酒も肴も 今日でおしまい 店仕舞 五年ありがとう 楽しかったわ いろいろお世話になりました しんみりしないでよ…ケンさん 新宿駅裏 紅とんぼ 想いだしてね…時々は”。もちろんカラオケの時は、ケンさんが○○さんになり、新宿駅裏紅とんぼが本町二丁目○○○○などに変わるのです。

黒ハートさてさて、オヤジが荼毘にふされる時、柩にしがみついて「私も一緒に…」なんて、果たして言ってもらえるでしょうか。

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2010年02月20日

ジョークで苦しみをいやす

  exclamationむかしからのジョーク・クイズです。第二次大戦が始まる前、ベルリンの街頭で「ヒットラーはバカだ」と叫んでいた男が逮捕されました。
  裁判で禁固20年の刑を受けましたが、20年のうち5年が侮辱罪でした。では残り15年の刑は、以下三つのうち何の刑だったでしょうか。
  @国家特別反逆罪A国家機密漏洩(ろうえい)罪B国家騒乱煽動(せんどう)罪。

  どんっ(衝撃)答えは後で書くとして、政治家の名前を色々と入れ替えたこの手のジョーク・クイズは世界各地で語り継がれています。同じように有名な小噺的なものがあります。
「いいニュースと悪いニュースを聞いてくれる?」
「いいニュースから教えて」
「ヒットラーが死んだそうだよ」
「ほう、で、悪いニュースと言うのは?」
「それが誤報だったそうだよ」

  冒頭の正解はAの国家機密漏洩罪です。

  1ジョークではありませんが、日本でも「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨」で始まる二条河原の落書きのように、政治や社会への怒りを皮肉・風刺した文書や言い伝えがたくさんあります。このように古今東西、ジョークや風刺は人々の苦しみをある面でいやす役割を果たします。

  2ところがどうでしょう。ヒットラーのように現在の日本の政治家でこういったジョークの対象となる怪物がいないのは幸いですが、あまりにもレベルが低すぎるのも困ります。景気は一向に浮上の気配を見せない中、国会で先生方が口角泡を飛ばしているのは「個人の金」の問題です。
  ジョークや風刺で苦しみをいやすこともできないのですから、わたしたちは本当に不幸です。

  ふらふらとは言え、最後におひとつ。
  「政治家が嘘をついているかどうか見分ける方法が一つだけあるが、知っているかい」
  「なんだよ、それって」
  「彼らの唇が動いていれば、それが嘘をついているときだよ」


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2010年02月19日

「靭公園界隈今昔」A下「インターネット情報の功罪」

x[ (5).JPG  靭公園の東端(四ツ橋筋が通る) 
 
  少なくとも筆者が目にする限りのインターネット情報では、靭飛行場は焼け跡に占領軍が作ったという内容で一致しています。日本軍が焼け跡に作った臨時の飛行場を占領軍が改修して使用したという情報については、インターネット情報には見当たりません。
論理的には、日本軍が作った飛行場を占領軍が再利用したという話に真実味があるように思えるのですが、靭飛行場の上を赤トンボが飛んでいたという話は夢であったのかと思わせるほどに、インターネットでは靭飛行場に関する話は米軍から始まっているのです。
  また、靭界隈で生まれ育った人間ですら殆ど知らない「雑喉場」という漢字がインターネットでは誰もが当然の常識のごとくに使っているのにも驚きます。今でも地元では、「ざこば」の漢字は「雑魚場」であると思っている人の方が多いように思うのですが、これは「雑喉場」が正しいらしいので文句をつける筋合いはないとしても、昔から靭を知る人間としてはやや違和感があることは事実です。

  地球規模で成長するインターネットの情報力の豊富さは今更言うまでもありませんが、情報によってはその出処が限られていることが珍しくありません。今やインターネット情報のスタンダードとしての地位を確立した「Wikipedia」の影響力も大きいようで、いったんWikipediaに詳細な情報が載ると、ここから引用されることも多いように見受けられます。
  そしてこのWikipediaにしても、その情報が真実かどうかを保障するものではありません。これを判断するのはあくまでもユーザーであるところにWikipediaの本質があるのですが、最近は新聞記者ですらこれを安易に信頼しているケースもあるようです。知らない分野はまずインターネットで調べて見ることは現代の常識ですが、ある事柄の情報群に関してはその出処が同じということは少なくないようです。だからその出処の内容が間違っていると、ネット上には間違った情報が流布されるということになります。

  紙による従来の書籍なり資料が必ずしも全て正しいわけではありませんが、そこには必ず責任の所在があり、これを引用する際にも一定のルールがあります。しかしインターネット情報では責任の所在があいまいであることが多く、しかもデジタル情報なのでコピーが容易で、一つの偏った情報が瞬く間に広がる危険性も生じます。
  靭飛行場の場合は、当時の日本軍やその後の占領軍という軍事機密の必要性から、私達が見ることのできる記録として殆ど残されていない情報のように思います。だから、既存の情報に加工を加えながら展開していくインターネットの情報としては欠落する部分なのかも知れません。

  情報が記録されないままに、靭飛行場を実際に見聞きした人々の殆どが鬼籍に入りつつ今、戦時中の靭についてインターネットに情報として記録する作業がなければ、靱飛行場の素性も永遠に闇に葬られることになる可能性が強いと考えるのは筆者だけでしょうか。(四方夏己)

小噺―飛行機に乗ってしばらくすると、スチュワーデスが「お客様の中でお医者様はいらっしゃいませんか」と聞く。偶然乗り合わせた医者が席を立ち、事態を解決することになった。またしばらくするとスチュワーデスがやってきて言った。「お客様の中でジャンボジェットを操縦できる方はいらっしゃいませんか?」
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2010年02月18日

「靭公園界隈今昔」A「靭飛行場は日本軍が作ったはずだが」

x (3).JPG 靭公園は東西に細長くなっている(半分が有名なテニスコート)

 靭公園の近くで生まれ、小学校卒業までここで育ったという四方夏己さん。1月13日付以来、約1カ月振りの登場です。「靭公園界隈今昔」Aを2回に分けて投稿してもらいました。公園の前身、靭飛行場は実は日本軍が作ったという話に絡ませて、ITジャーナリストならではの切り口でインターネット情報の危険性についても言及しています。
              
蟹座

 江戸時代から続く魚市場や海産物問屋街が昭和6年に近隣の大阪中央卸売市場に吸収されてからも、靭界隈にはなおその面影が色濃く残っていました。しかし第二次世界大戦末期の大阪大空襲によって、見渡す限りの焼け野原になりました。
靭界隈の建物のほとんどが木造であったことから、一日にしてあたり一面はすべて焼き尽くされ、四つ橋筋から大阪湾に沈む夕陽が見えたそうです。
 しかし日本軍は本土決戦に備えてこの焼け野原を飛行場に転用、終戦までの数カ月間にわたって軍用飛行場として使用しました。そして終戦後すぐに占領軍がこの飛行場を接収、米軍の専用飛行場として使用しました。
昭和27年に接収が解除された後、大阪市の失業対策事業の一環として公園の整備が行われ、昭和30年に靭公園として開園しました。飛行場の跡地だから靭公園は東西に細長い、ということは広く知られています。

 被災者の多くがまだ健在であった時代には、空襲跡に作られた飛行場は戦争の生々しい記憶として靭界隈の住民には忘れることのできないものでした。見事に焼け尽くして見渡す限りの更地となった土地を飛行場に転用するという発想も、本土決戦を本気で考えていた当時の日本軍ならではという気がします。戦後生まれの悪ガキ達ですら、何となく空襲の凄さを感じる話ではありました。
 焼け跡を日本軍が飛行場として何カ月使用したのかは定かではありませんが、焼け出された住民達は、にわか仕立ての靭飛行場から赤トンボ(旧日本軍の練習機の通称)が焼け跡の上空をフラフラ飛んでいるのを見て、「あんなもんで本当にアメリカをやっつけることができるんかいな」と不安になったそうです。
すでに陸海軍の戦闘機が底をつき、わずかに残った練習機で本土決戦を挑むことの無謀さはもちろん、その燃料たるやアルコールに松脂を混ぜた代替ガソリンだという噂がどうやら本当であるような飛び方に「もうあかんのとちゃうか」と感じた人は少なくないとのことでした。

 しかし靭公園界隈の話を書くに当たってインターネットで関連情報を確認したところ、面白いことに気付きました。
「靭公園界隈が江戸時代から雑喉場(ざこば)魚市場として、また全国有数の海産物問屋として栄えた」「昭和6年に近隣の大阪中央卸売市場に吸収されてその役割を終えた」「昭和20年の大阪大空襲によって廃墟となった」「その廃墟の跡を利用して占領軍が飛行場を作った」―という内容が、いずれの情報にも判で押したように共通しています。(四方夏己)

猫小噺―飛行機に乗ってしばらくすると、スチュワーデスが「お客様の中でお医者様はいらっしゃいませんか」と聞く。偶然乗り合わせた医者が席を立ち、事態を解決することになった。またしばらくするとスチュワーデスがやってきて言った。「お客様の中で牧師さんはいらっしゃいませんか?」
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2010年02月17日

「ウツボ親父の料理万歳−靭公園界隈飲み・食べ歩き」A魚菜「さか蔵」

PICT0007.JPG 厨房も若さあふれる(左がオーナー店主の阪口さん、クリックすると写真が拡大します)

大阪市の都心部は国道の御堂筋を中心に形成されています。南行き一方通行のこの本線をフォローするのが、北行き一方通行の堺筋と四ツ橋筋です。四ツ橋筋から西に広がり、本町通りと中央大通りに挟まれた地域を西本町といい、中小企業のオフィフや猥雑だが活気のある飲食店が軒を連ねます。
これら飲食店の顧客単価は本町と比べ2〜3割安いとされていますが、あえてこの地に一人平均5,000円と本町でも最近は「高くついた」と思わせる和食料理店で殴り込みをかけたのが魚菜「さか蔵」です。オーナー店主の阪口孝治さんは、「人と人との繋がりを大切にする店にしたい」と話すまだ30前の好青年です。
手(グー)
本町通りと四ツ橋筋が交わる信濃橋交差点を南に一筋、西に数メートル入ったビルの地階が「さか蔵」だ。地階といっても店には通りから直接階段を下りて入る。以前はイタリアンの店だったそうで、これを全面改装して昨年11月24日にオープンした。つい最近まで、入口には開店祝いのランなどが飾られていた。
「さか蔵」はご本人の阪口、魚、酒の3つからなる宝の蔵を意味する。確かにネタはいずれも新鮮で、日本酒も銘酒を取り揃えている。例の「十四代」も毎月最低1.8リットル一本は確保する。店内は天井も高く全体としてゆったりしており、席は2人席と4人席が各2、6人席1、さらに床が一段上がったカウンター席7の合計25席だが、このカウンターへのこだわりをひとつのウリにしたいと阪口さん。
つまり「料理の良さ、内容はどこの店も一切手を抜くことはしない基本中の基本。ならば人と人との繋がりを大切にして、お各様とは店に付くより人に付くような関係でありたい」。その場が、お客と直接対面できるカウンターというわけだ。オープンスタイルの厨房の前には、前後左右ともゆったりした二段のカウンターがあり、上段には柔らか蛸煮や筍の煮付け、バイガイなど旬の食材を使ったおばんざいの大鉢が6〜7種ある。お客はとりあえず「きょうは何を置いているかな」と、おばんざいをチョイスして本料理を注文。阪口さんはお客との会話を楽しみながら、目の前で料理をすることに心がける。

大阪の平凡なサラリーマン家庭で育った。料理との出会いはアルバイトで、途中から大学も中退して和食の世界にはまってしまった。本格修業を含め4店ほどで13、4年というから、歳の割には年季が入っている。料理はもとより店の経営や顧客サービスなどあらゆる面でお世話になったのが、本町や高麗橋、江戸堀など現在4店舗を持つ和食料理店の旬彩工房「喜あじ」。ここのオーナーもまだ若いが、5年間ほど徹底して鍛えられ、高麗橋店の店長を経て独立した。
独立はひとつの賭けだったという。手持ち資金では到底足りず、ある金融機関に融資を頼むと最初はけんもほろろ。数回足を運ぶ中でやっと少額の融資が提示される。「この額はもう諦めろという形だけの数字ですか。私はサラ金に借りても店を開きたいのです」等々と、何度も何度も頭を下げに行く。「熱心さ必死さを買ってもらえたのでしょうか、それとも根負けですか。ここまできたら後がなかったですから」と振り返る。

顧客一人平均5,000円の店を、西本町に開くことも賭けだった。「どこで開いてもいろいろな客層はいるはず。ならば一番上の方を狙えと。今のところ、なかなか上々です。それに来年にはオリックスが来ます」と会心の笑顔。至近の中央大通り東角に来年2月末完成する地上29階・130bのオリックス大阪本社ビルへの期待だ。
11時半〜1時半の800円の日替わり定食、近辺ではやはり高いゾーンだが、ボリューム感もあってサラリーマン層で埋まる。夜は5時半に始まり、建前は10時半までだが「ラストオーダーは無し。朝の4時であってもお客様が帰られた時が閉店」だそうだ。
夢はもう1店舗。とにかく「喜あじ」を目指したい。「面倒見のいい大将で、独立後も何かと気遣っていただきます。尊敬し目標とする人です」と、何のてらいもなく語る。そういえば、カウンターやおばんざい、はてはメニューのスタイルまで「喜あじ」と似通っている。「女性スタッフのユニフォーム以外は、全ていいとこ取りしているな」と聞くと、正直に頷く。
うまい料理と酒、そして若さが味わえる店だ。(大阪市西区西本町1−7−8 柴田東急ビルB1、電話06−6535−5232)

特別メニュー「小噺」
娘「パパ、酔っぱらうってどういうことなの?」
父「ちょっと説明しづらいけど、例えばそこにグラスが2つあるだろう。それが4つに見えたら酔っぱらっているということ」
娘「でもパパ、グラスは1つしかないよ?」

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2010年02月16日

箸休め「靱公園にも春の兆し」 箸休め―「靱公園にも春の兆し?」

x炬 (3).JPG 公園の中にある小さな川のせせらぎが聞こえてきませんか。そういえば、昼食を取った近くの食堂のカウンターには白い木瓜(ぼけ)の花が飾ってありました。自宅のベランダでも赤い木瓜の花がほころんでいました。間違いなく春が近づいています。(写真は靱公園の小川です。クリックして拡大してみてください。ほら、サラサラという音が聞こえませんか)
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2010年02月15日

新聞を読んで―「最貧市 大阪」

2010021418260000.JPG 大型箱物も大阪市の逼迫財政を象徴する(第2府庁構想が進むWTC)

1「同じ大阪府下でも、堺市に住むある夫婦が『大阪市○○区は生活保護が受けやすい』と聞いて引越し、すぐに受給を申請した。実際は月10万円近くの収入があるのに無収入としたウソの収入申告書を市に提出、生活保護費100万円強をだまし取ったもの」―先日、ある新聞に掲載されていました。
大阪市に限らず、各地の自治体は生活保護の受給者が急増しており生活保護費(扶助費)確保に向けた補正予算の編成に追われており、生活保護費の負担が厳しい地方財政を圧迫しています。とは言え、大阪市は群を抜いています。もともと高齢化率、失業率、離婚率は全国平均を大きく上回っていたところへ、リーマン・ショック後の不況で生活保護世帯と受給人員が急増しています。2008年末から09年末までの1年間で1万5千世帯、1万8千人それぞれ増加。増加率第2位の名古屋市が5千世帯強ですから、大阪市の異常さは際立っています。
このため大阪市は生活保護費として240億円ほどの補正を組む方針で、当初予算分を合わせた今年度の生活保護費の総額は過去最高の約2700億円になります。また新年度には、一般会計予算の実に2割近くを生活保護費に当てるそうで、「生活保護で市の財政が破綻する」といっても過言ではなさそうです。
しかも困ったことに、大阪市のホームレスのための「自立化支援センター」には、20〜30代の若手入居者の割合が急増しており、雇用情勢の悪化が一段と深刻化しています。

2朝日新聞の今年正月元旦号に、次のような統計数字が載っていました。
題して「大阪が100人の村なら」。
@100世帯のうち5世帯が生活保護
A小中学生100人のうち27人が給食費や修学旅行費が払えず援助
B若い人100人のうち16人が働きたいのに仕事がない
C働く年齢100人のうち、会社で働くのは50人。うち18人がパー ト、アルバイト、派遣・契約など不安定な身分
D仕事をしている100人のうち、53人が年間300万円未満の所得
E100世帯のうち、国民健康保険に加入している38世帯の中で10世帯が保険料未払い
 正月早々、背筋がぞっとしたのを覚えています。

 3お隣の中国は13日から春節休暇に入り、金持ちの中国人が続々日本に買い物に来ています。やはり東京が中心ですが、関西空港に下り立って心斎橋や梅田で見かける中国人も増えています。すべてとは言わないまでも彼我の差、どこから生まれているのでしょうか。  

4こんな勢いの差を裏付ける、ある読者の新聞への投稿を目にしました。引用してみます。
《著名な経済評論家が昨年11月、「上海の繊維工場で聞いた話」としてこんな話が雑誌に載っていた。「あっちは日本向けだから安物、これは中国で売るから中等、そっちはアメリカ輸出用だから上等です」。耳を疑いたくなるような話だか、半ば納得せざるを得ない。春闘が始まったがここ10年近く日本ではほとんど所得が増えない。購買力の落ち込みは著しいものがあり、安いものを買う傾向が強くなるのは必然。(大阪府下在住、無職67歳)》
 この中のある評論家先生の報告、多少は誇張もありますが、一面で現実の姿です。日本市場に蔓延する数百円の「藍色に塗っただけのパンツ」を生産するには、中国の低いゾーンかバングラデシユなどの工場でしか無理なのです。

5メディアを席巻して連日下手な笑いを振りまく吉本芸人たちに現を抜かされて、貧困な政治に気がつかないままでいるようでは、いつまでも「最貧市民」に甘んじなければならないと思うのですが。

□小噺―「先生、うちの子はよく嘘をついて困るんです。将来、何になったらいいんでしょう」「お母さん、大丈夫です。立派な政治家にしなさい」
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2010年02月14日

「古代史の楽しみ方」西都原古墳群の前方後円墳A

O.JPG 西都原古墳群の中心部付近から北方向を望む。左手の二つの森が、宮内庁指定の男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳。さらに右奥の高い山が物部氏の祖とされ『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と記されているニギハヤヒ命」を山頂に祀る尾鈴山(おすずやま)(画像をクリックすると拡大します)

 5世紀に入ると、西都原の地に男狭穂(おさほ)塚古墳・女狭穂(めさほ)塚古墳というこれまでの柄鏡式とは異なる墳形を持つ大型古墳が築造された。男狭穂塚古墳は全長160メートルの帆立貝式前方後円墳、女狭穂塚古墳は同176メートルの典型的な中期の前方後円墳の墳形である。

 両古墳とも宮内庁指定陵墓参考地であるため、詳細な築造年代の確認は容易ではないが、5世紀の初めあるいはその前後であることが推定されている。また男狭穂塚古墳の墳形は、類例が少ない帆立貝式の中でも特に独自の日向式といえる特徴を持つ。
 対して女狭穂塚古墳は、その少し前の時期に築造されたと推定される仲ツ山古墳(全長290メートル、羽曳野古墳群の伝仲津媛陵)のほぼ5分の3の相似形であり、また女狭穂塚とほぼ同時期の上石津ミサンザイ古墳(全長365メートル、中百舌鳥古墳群の伝履中陵)のほぼ2分の1の相似形であることがそれぞれ推定されている。

 桜井茶臼山古墳という、大和盆地では極めて特殊で様々な特徴を持つ「大王陵」の影響を受けた可能性のある柄鏡式前方後円墳が、遠く日向の地に築造され始めた4世紀からほぼ1世紀を経て、畿内の複数の大王陵と何らかの特別な関連性があることが推測される女狭穂塚古墳が築造されたことは、実に興味深い謎だと言えよう。(おわり、奈良屋嘉兵衛)
   



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2010年02月13日

箸休め「梅一輪一輪ほどの暖かさ」

2010021309150000.jpg 事務所への途上、暖かさに誘われてマンションの庭に出てみると、写真のように紅梅、白梅がほころんでいました。来週にも時間を見つけて、大阪城公園の梅林に出掛けようかと思っています。

 ところで今日から冬季オリンピック。事務所のテレビは、いまその開幕を伝えています。実は事務所のテレビは40インチの大型で、バンクーバーの美しい冬景色が手に取るように伝わります。ところが家のテレビは10年ほど前のおんぼろです。来年7月のアナログ放送中止まで買ってもらえないのです。必然的に、オリンピックやワールドカップには事務所滞在が長くなるでしょうね。
 こんな家族の悪口を言っていると、明日のバレンタインは期待できないかもしれません。ここに掲載した同じ写真をメールで送ると、「まあ綺麗ね」との返事。すぐさま「いやいや貴女のほうが層倍綺麗」と再送しましたが、効果のほどはいかがでしょう。飲み屋さんからの義理チョコも激減が予想されるだけに、今年は寂しいバレンタインでしょうかねえ。

[訂正です]本日付ブログに載っている「古代史の楽しみ方」西都原古墳群@の写真説明を「西都原古墳群の東端から都萬(つま)神社方向を見下ろす」としているのは間違いで、正確には「西都原古墳群の中心部付近から北方向を撮影したもの」です。訂正します。なおこの写真の内容は明日付けで詳報していただきます。奈良屋嘉兵衛さん申し訳ありませんでした。
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「古代史の楽しみ方」西都原古墳群の前方後円墳@

kitahoukou.JPG 西都原古墳群の東端から都萬(つま)神社方向を見下ろす(画像をクリックすると拡大します)

西都原古墳群での柄鏡式前方後円墳は、まだ全容が調査されていないために詳細は確認できないが、3世紀後半から4世紀半ば頃までに築造されたと推定されている。最も初期の築造と推定される81号墳、91号墳に次ぐ時期の100号墳が2000〜2003年に調査された。
筆者が10年前に訪問した時がちょうど調査が開始されたばかりで、その後100号墳は全長57メートル、後円部径32.7メートル、高さ3.5メートル、前方部の幅17.5メートル、高さ2.2メートルで、葺石(古墳の表面を覆う小型及び中型の石)で覆われていたことが確認された。
(注:その後2004〜2005年に81号墳が調査され、推定築造年代が3世紀後半頃まで遡る可能性があることが確認された)

畿内全域、あるいは大和盆地でも極めて特殊な「柄鏡式」の前方後円墳である桜井茶臼山古墳の推定築造時期は3世紀後半であり、それと同時期かそれに続く時期に多くの柄鏡式前方後円墳が日向地域で築造されていたことは、注目すべき点である。
桜井茶臼山古墳は自然地形(丘陵先端部)が盛土されずに削り出して築造されているため、その特殊な墳形の成り立ちは自然地形上の制約によるものかもしれないが、その墳形(柄鏡式)や様式が類似する前方後円墳が特に日向地域を中心として多数築造されていることは、桜井茶臼山古墳の被葬者が日向地域と何らかの特別なつながりがあった可能性を示していると推測される。(奈良屋嘉兵衛)
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2010年02月12日

「古代史の楽しみ方」桜井茶臼山古墳B―西都原古墳群との関連について

100goufun.jpg 西都原古墳群の中の典型的な柄鏡式古墳(画像をクリックすると拡大します)

1月26日付と27日付の2回、古代史研究家の奈良屋嘉兵衛さんに桜井茶臼山古墳をテーマに「古代史の楽しみ方」を投稿していただきました。今回は桜井茶臼山古墳のもう一つの大きな特徴である「前方部の形状」について、宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群との絡みなどと合わせて詳しくご紹介していただきます。
カメラ

《前方後円墳の前方部の形状》
桜井茶臼山古墳の前方部は、主体部(主な被葬者の埋葬施設)がある後円部(径110メートル、高さ24メートル)よりかなり低く、また幅が狭くて長い長方形状である。このような形状の前方後円墳は、柄鏡(えかがみ)式前方後円墳と呼ばれ前期古墳の主な形状の一つだが、畿内では類例は少ない。
前期古墳で最も典型的な形状は箸墓古墳(奈良県桜井市)や椿井大塚山古墳(京都府木津川市)に代表される、前方部の先の方が三味線の撥(ばち)のように広がる撥形前方部を持つものである。
同じ吉備でも東域に当たる備前地区の代表的前期古墳である浦間茶臼山古墳(岡山市浦間、全長138メートル)も撥形の前方部を持ち、箸墓古墳のほぼ2分の1の大きさの相似形と推測される。また椿井茶臼山古墳は、箸墓古墳のほぼ3分の2の相似形と推定されている。

前期後半から中期になると、台形状の前方部の幅が広く高くなり、中期前半の吉備の造山古墳(岡山市北区、全長360メートル)や中期後半の河内の誉田山古墳(大阪府羽曳野市、全長419メートル)、大山陵古墳(大阪府堺市、全長486メートル)などの巨大古墳に代表される典型的な前方後円墳の形状となる。
さらにあまり数は多くないが、台形状の前方部の長さが短い形状の前方後円墳もみられる。これは帆立貝式前方後円墳と呼ばれる。

《日向の柄鏡式前方後円墳》
前期前半(3世紀半ばから4世紀初め)の早い時期に築造された箸墓古墳に続く時期に築かれた桜井茶臼山古墳は、畿内では特殊な柄鏡式前方後円墳であったわけだが、この柄鏡式前方後円墳が最も多く見られるのが日向(現在の宮崎県一帯)地域である。
宮崎市の中心部からバスで約1時間、北方向に走った場所に位置する西都原(宮崎県西都市)古墳群では、30基の前方後円墳のうち11基が柄鏡式である。
この西都原古墳群は東西2.6キロ、南北4.2キロ、高さ70メートルの広大な高台にあり、ここに前方後円墳、円墳、方墳、地下式横穴墓など計300数十基の古墳、横穴墓が築造されている。
日向の古墳や古代史については、昨年他界された西都原古墳研究所(現西都原考古博物館)元所長の日高正晴氏の名著、「古代日向の国」(NHKブックス)に詳細が記述されている。
ちなみに宮崎県には、古墳群では最大の西都原古墳群以外に持田古墳群(児湯郡高鍋町)、川南古墳群(同川南町)、新田原古墳群(同新富町)、百塚原古墳群(西都市)、児屋根塚古墳群(西都市)、下北方古墳群(宮崎市下北方町)など、そして大淀川沿いの生目古墳群(宮崎市跡江地区)、本庄古墳群(東諸県郡国富町)などがあり、それらの多くに柄鏡式前方後円墳が含まれている。
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2010年02月11日

「箸休め」こちらも球春を待つ

utubo.jpg雨に濡れた靱公園のテニスコート(写真はクリックすると拡大します) 

10日は太平洋側中心に気温が急上昇し、宮崎県延岡市6月中旬並みの26.1度だったそうです。東京に出張していましたが、コートが邪魔でしかたありませんでした。しかし11日は一転、関東でも10度近く気温が下がったと知り合いからメールが来ました。
 今日も全国的に天気が崩れ、冬に戻ったようです。ふらっと昼前にオフィスに出掛けました。途中の靱公園テニスコートは雨ということもあって、人っ子ひとりいません。こちらも、コートが「は〜るよ来い」と歌っているようでした。
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ビールの泡のごとく消え去ったキリンとサントリーの結婚話

2010021012120001.JPGから09年の出荷量が多かった順。オリオンは近くのコンビニにおいていませんでした

 この婚約話、めでたく結婚まで辿り着くのだろうかと危ぶんでいたら案の定、ビールの泡のように消えてしまいました。キリンとサントリーの経営統合交渉の打ち切り問題です。来年春にも、両者の統合で年間連結売上高3兆8000億円、米ペプシなどと並ぶ世界5位の酒類・飲料会社誕生を期待する声も多かったのですが、しょせんは家柄・家風の違いということですか。

 当初は持ち株会社の統合比率をキリン1に対しサントリー0.78〜0.88で進める構想でした。しかし実際の交渉ではキリンからサウンドされた比率が1対0.5と、サントリー側が描く「対等」とは程遠い内容となり、サントリーの佐治社長やサントリー株の9割を持つ鳥井家など創業家一族が反発したためと報道されています。サントリーとしては最低、創業家が経営判断への拒否権を持つ3分の1を持ちたかったのでしょう。
 キリン側はあくまで交渉のテクニックの失敗だとし、キリン社内でも基本的にこの3分の1のコンセンサスは得ていたといいますが、こればかりは分かりません。むしろキリンが途中から「あれだけ舅姑、さらには小姑がいるような人との結婚は嫌!」ということで、意識的に嫌われる行動をとったとの見方もあります。

 いずれにしてもパブリック企業のキリンと、「とりいさん」のサントリーとでは家風が合わないのは必定。結婚する3組に1組が離婚する今の日本ですが、企業同士の経営統合は簡単に離婚というわけにはいきません。
 キリンもサントリーも今後、国際結婚を含む新たな相手を見つけ出して、閉塞感のある日本市場からワールドワイドの展開に打って出るのでしょうね。

 ところで昨年の国内のビール販売量は4億7250万ケースで、前年実績比マイナス2.5%でした。5年連続右肩下がりが続いています。それでも1ケースは大瓶20本換算ですから、4億7250万ケースとは大瓶94億5千万本。つまり日本人はお年寄りから赤ちゃんを含め、1年間に約90本の大瓶を飲んでいる計算になります。
 小生は日本酒や焼酎が主で、年間にして大瓶だと200本ほどしか飲んでいません。一体全体、これほど誰が飲んでいるのでしょうか。

 昨年は、9年振りにキリンがアサヒを抜いてトップの座に返り咲きました。例の第三のビールが20%近く増加したのが要因です。「トップの座」と、歯切れの悪い表現をするには意味があります。ここで言うトップとは「出荷量NO1」で「販売量NO1」ではないのです。販売量は昨年もアサヒでした。今年になってテレビCMなどでアサヒが「販売量ナンバー・ワン」と回りくどい言い方をしているのは、ここにわけがあるのです。
 ビールの業界では工場から物流拠点に出荷された数量が課税対象とされるために、倉庫の在庫などを含め、たとえ販売先が決まっていなくても出荷量の1位が業界ナンバー・ワンを名乗れるのです。ちなみに出荷量の順はキリンが37.7%、0.2ポイントと鼻の差2位がアサヒ(37.5%)、サントリー(12.3%)、サッポロ(11.7%)、オリオンと続きます。キリンとしては、サントリーと一緒になってアサヒに出荷量、販売量ともぶっちぎりで差をつけたかったのでしょうが、冒頭述べたように夢はもろくも崩れ去ったのです。

 キリンの勝因にあやかろうと、各社「第三のビール」なるビール風味の発砲アルコール飲料に力を入れていますが、皆さんいかがでしょうか。どうもこの種のビールは飲んだ気がしないのですが。
 サッポロのように「価格より味にシビアな関西人を対象に」と、最近は味よりもくすぐりに弱い関西人を逆手にとって3月3日から関西限定版の「クリーミーホワイト」なる第三のビールを出す会社もあります。さて今年のトップ企業はどこになるのでしょうか?




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