2010年01月31日

友禅画家「あだち幸」の世界

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 「友禅画」を見られたことはありますか。日本画や洋画さらには染め絵などどのジャンルにも属さない、言ってみれば染色と日本画とのコラボレーションで生まれた世界でただひとつの「画」だそうです。

2月1日まで高島屋大阪店で開催されている「京都・壬生寺展」に行ってきました。壬生寺は創建1000年を超す名刹ですが、毎年節分と4月、10月に演じられる無言劇の壬生狂言、さらには例の新撰組ゆかりの寺として有名です。主目的は展示された壬生狂言衣装や寺宝などの観覧ではなく、2007年から本堂に奉納されている高さ2.7メートル、全長30メートルにもおよぶ障壁画を見るためでした。この障壁画は一般公開されておらず、今回が初公開でした。
そしてこの障壁画こそ、「あだち幸」という画家が京都の伝統的な手描き友禅染めの手法に独自の技法を加えて生み出した友禅画なのです。あだち幸さんは、「地獄から極楽への浄土絵巻」をモチーフに4年がかりで障壁画を完成させ寄進しました。また奈良の唐招提寺に、幸さんが昨年奉納した屏風「同天の讃―讃仰鑑真和上」などの作品も公開されていました。彼女はある新聞紙上で、この障壁画や屏風は宇宙の生命や神秘を仏の姿に描いており、「あらゆる生命をいとおしむ心こそ人間社会と地球を救う道と信じ、そうした『仏心』に響くようにと念じてきた」と話しています。

 また同じ高島屋大阪店の6階美術画廊で、あだち幸さんの小品も展示公開されています(こちらは2月2日まで)。実はそこで、ご主人を交えてお話していて分かったのですが、幸さんは私が卒業した高校の3年先輩でした。今もご夫婦で暮らしておられる、岡山県西南にあって星が一番美しく見える町「井原市美星町」(つい最近までは小田郡美星町)で生まれました。大阪外国語大学(現大阪大学)英語科卒業後、一般企業に勤務。
 一方で日本画家の三宅順風氏、染色作家の五代目田畑喜八氏にそれぞれ師事した後、卓越した技術によって「友禅画」という独自の世界を生み出しました。

 「友禅画」の技法は伝統的な友禅染めが基本であるものの、ご自分のイメージを表現するために着物の染めにはありえない独自の技法がいくつか生まれてきたそうで、岩絵具の代わりに染料を使って上質の絹地に日本画のように重ね塗りをするといった、着物の染色ではありえない技法だと説明されています。
 ちょっと「友禅画」の技法・工程を、ホームページから拝借してみました。「図案作成」から始まり、絹地に図案を写す「青花写し」、溶けたゴムで輪郭線を描く「ゴム糸目」(染料が滲み出さないための防染とともに白抜きの輪郭線として残る)、ほとんどぬれ描きで仕上げる「彩色」(このぬれ描きによる“胡粉ぼかし”が、あだち幸さんの特徴としています)、蒸して染料を定着させる「蒸し」、ゴム糸目の跡が白い輪郭線として残る「ゴム糊おとし」、糊料や定着しきれない染料を洗い流す「水洗」、そして世界で幸さんがただ一人といわれる驚くべき手法の“胡粉ぼかし”といわれる「特殊仕上げ」、さらに金加工、金粉、箔、パール粉、胡粉などで仕上げをする「最終仕上げ」でやっと完成です。
 京都などで行われている通常の友禅染は、染色作家を中心に各工程の専門職人たちによって一つの作品が出来上がりますが、幸さんは「蒸し」と「水洗」の工程を除いて20を超す工程全てを自分一人で完結させるのですから、驚くべき忍耐力、精神力とバイタリティです。非常に清楚で落ち着いた感じの女性で、どこにそのような力があるのか到底理解できませんでした。

 宇宙の生命や神秘を仏の姿に描くと前述しましたが、全体として作品のテーマは伝統友禅の扱う単調な花鳥風月ではなく、「自己の内面を極限表現するために仏の姿を借りる。その仏も伝統仏画とは表現の姿勢が異なり、日本でも唯一のもの」と自負されています。機会があれば一度アトリエをお尋ねしたいものですが、目に浮かぶ美星町の美しい情景の中でこそ「あだち幸」ワールドが生まれるのだと痛感したのです。
 「近くに小さなお寺があるのですが、そこに友禅画を画いてみたいなあ、なんて思っているんですよ」と、こっそり打ち明けてくれました。また楽しみが増えるかもしれません。

 幸さんの作品が「ほとけシリーズ」「コクーンシリーズ」「鬼シリーズ」「羅殺シリーズ」「サロメシリーズ」などの形で出版されています。壬生寺の障壁画をブログでお見せできないのは残念ですが、ネットや実際に高島屋でご覧ください。
 写真右は「コクーン」の表紙、左が壬生寺展のチラシで、上部はあだち幸さんの「宙みつ祈り―夕映え菩薩」(部分)です。

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2010年01月30日

上州人は何故「3」にこだわるのでしょうか

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 この話、今月9日付けでも触れたのですが、昨29日と本日30日の朝刊コラム(朝日の天声人語、日経の春秋)、テーマと内容がまったく一緒なのです。昨日は一昨年6月に起きた秋葉原無差別大量殺傷事件の初公判にあたり、「時代のせい」「他人のせい」などと語る被告の心境などに触れ、最後はネット社会との絡みでまとめています。そして本日付けはサリンジャー。確かに伝説的存在だった作家の訃報ですが、「ライ麦畑でつかまえて」が6500万部も売れたなどテーマは一緒。読売も含めこの三紙はネットで「よみくらべサイト」を開いているが、正直このような状況では比べようがありません。

 まあ、今日のボヤキはこれまでにして、再び上州の話です。どうして上州人は「3」にこだわるのでしょうか。28日付けでも触れた上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)や上毛三湯(草津温泉、伊香保温泉、四万温泉)などはまあ一般的ですが、さぬきうどん、稲庭うどんに加えて水沢うどんを日本三大うどんと盛り上げています。確かに水沢うどんも実際に食べてみると、のど越しさわやかで歯ごたえもしっかりし、出しもうまい。ただ讃岐・香川=うどんほどメジャーではないのです。現実に、あるネット会社の「群馬と言えば」意識調査でも、温泉、赤城山、下仁田ねぎ、尾瀬、こんにゃく、サファリパーク、だるま、かかあ天下と空っ風、峠の釜めし、総理大臣出身県がベスト10を占め、水沢うどんは17位です。

 そしてより陳腐なのが日本三大石段として、伊香保温泉の石段街を挙げていることです。確かに約400年前に造成され、360段の石段の両側には老舗旅館、土産物屋、射的屋、飲食店などがずらりと軒を連ねる。また石段の下に温泉が流れるなどの風情を加味すると、伊香保関係者が挙げる日本三大石段の残る二つ、1368段の香川・金刀比羅宮や山形の山寺・立石寺と比べ遜色ないのかもしれませんね。しかしまてよ、日光東照宮奥の院は、京都の清水・三寧坂や知恩院は、尾道の千光寺公園は、姫路城は等々、かつて息を切らせて上った石段が浮かぶのですが。

 ところで前述の群馬意識調査で、温泉の1位はだれもが疑うところではないでしょう。何しろ観光客が名前を挙げる有力温泉が県内に40数湯あるそうですから。中でも草津の湯は旅行業界などが選ぶ全国の人気百選の中で堂々ベスト3にランクされ、伊香保も能登の和倉温泉に次いで21位だそうです。ただどうしても腑に落ちないのは、上毛三湯の残る一湯が水上温泉でなくなぜ四万温泉なのでしょう。若山牧水の「みなかみ紀行」より、日本最初の国民保養温泉のネームバリューが大きいのでしょうか。

 最後に同じ3の話でも、あの国定忠治が活躍した赤城山麓は現在、前橋市、桐生市、そして4年前に誕生したみどり市の3市に入り混じっているそうですね。みどり市の誕生も色々すったもんだがあったそうで、さすがにこれには忠治親分も草葉の陰から驚いているでしょうね。クイズです、「赤城の山も今宵限り、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる門出だ」―こう忠治が言ったのは、現在の何市だったでしょう。

(写真は「日本三大石段」の一つ、伊香保温泉石段街)

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2010年01月29日

百貨店不振と、ある温泉まんじゅう屋さんの商法

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あの阪急百貨店の京都四条河原町店が今秋、閉店されます。とにかく百貨店や量販店の売り上げがさっぱりです。2009年の百貨店売上高は6兆5842億円で前の年より7900億円減って、24年振りに7兆円割れとなりました。ピーク時の91年より3兆円減っています。また量販店も同4400億円減っていますから、両者で合計1兆2300億円も減ったことになります。

 百貨店の場合、新年の福袋商戦は大盛況で、また大阪地区ではリニューアルした大阪の阪急百貨店や阪神百貨店の食品売り場、さらにはそうごうを編入した大丸のニュー心斎橋店もそこそこ健闘しています。しかしこれらも、どこまで長続きするか確証はありません。朝日新聞・天声人語の孫引きになりますが、福袋商戦についてあるコラムニストの「福袋しか売れない」「福袋を買うのはモノを買うのではなく、福袋を買うというコトを買っているだけ」との発言を引用していましたが、まさに言い得て妙です。リニューアルした阪急や大丸心斎橋店、阪神食品売り場にしても、お客さんは何か新しいコトを求めて来店するのでしょう。

 コトで集客できない百貨店や量販店は悲惨です。あげく阪急四条河原町店の発表に先立ち、西武有楽町店など4店の閉鎖を発表したそごう・西武のセブン&アイホールディングのような動きは、まだまだ出てくるはずです。抜本改革をせず、不採算の店を閉めて高収益店に経営資源を集約するだけの施策しか見られないのですから。その一環でユニクロ、はては「百均」の売り場まで呼び込もうとしています。

 百貨・量販店に代表される小売り不振の一つの要因として、確かに行き過ぎた低価格化、新型デフレが挙げられます。「ユニクロ栄えて国滅ぶ」と名言を吐いた同志社大学の浜矩子教授が書いていました。「徹底した安物ハンティングで家計防衛に頑張っていたある主婦の夫が、会社をリストラされてションボリ帰宅した。夫を解雇した会社は、その主婦が喜んで安物買いに日参していたショップへの納入業者だった」。こんなブラックユーモアが各地いたるところで起きているのです。

 ただイケアの日本進出の陰の黒幕が話しています。@高品質=高価格から高品質=低価格へと消費トレンドは劇的に変化しているA低価格で買い物を楽しむことで、モノを買う行為への抵抗感が薄れるB潮流に乗り遅れまいとして、従来と同じコスト構造のままでやみくもに低価格設定に走る企業は収益を圧迫されると。とりわけBが問題なのです。ユニクロやイケアのように、しっかりした低価格化へのコスト構造の仕組みが確立している企業に対して、日本ではできてない企業が大半なのですから。

 NEWある観光地の温泉まんじゅう屋さんにビジネスの原点を見ました。40年ほど前にご主人を亡くし、後家の身で息子さんを4代目の社長に育てた元祖「湯の花まんじゅう」大黒屋本舗のおばあちゃん。息子さんと2人で1個80円のまんじゅうを手作りし、自分の店だけで販売します。他の旅館や駅のショップには卸しません。こだわるのは品質。同地で売られるあらゆる湯の花まんじゅうの中で、大黒屋のまんじゅうの重量が一番重いのです。つまり黒砂糖で作る餡が一番多く詰まっているわけで、このことが「まんじゅうの重さベスト3」といった形でグルメ雑誌や旅行パンフなどに取り上げられています。他に一切、宣伝行為などもしませんが、お客がわざわざ店を探して買い求めに来ます。ガラス越しに、まんじゅう作りの工程がはっきり見える作業場で、せっせっと大きな餡を包む息子さんの前で、おばあちゃんは注文に応じて箱に詰めて手渡します。「1日どれくらい売る?」の質問には笑って答えませんでしたが、朝9時過ぎにたまたま入った私たち3人で瞬時に40個・3200円売れたのです。1日最低500個として、年中無休ということですから1カ月15,000個・120万円。原価や販管費は限られており、かなりな利益が予想されます。独自の差別化戦略で顧客を呼び込む、一つの手法でしょうね。
(写真は元祖「湯の花まんじゅう」大黒屋本舗のしっかりおばあちゃん)
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2010年01月28日

上州「伊香保温泉」で駆け足湯治

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 先週の金、土曜日、上州は伊香保温泉に浸かってきました。名物空っ風ならぬ不況風が吹きまくるこのご時世ですが、結構湯治客は多かったですねえ。考えてみれば車だと練馬インターから関越自動車道で60分、渋川で降りて一般道20分の都合80分、鉄道でも東京から高崎まで新幹線で50分、上越線の渋川駅まで20分、そこからタクシーやバスで30分の計100分の旅ですから、まさに東京の奥座敷と言っていいでしょう。

 渋川駅に下り立つと、いつも新年元旦のニューイヤー駅伝で見慣れた赤城山、榛名山、妙義山という上毛三山を始めとした標高1000メートルから2000メートルの山々が、背中からしっかり抱きこむようにして迎えてくれました。そう、ここは広大な関東平野の北限なのですね。

 知人2人と泊まったホテルは、今から400有余年前の天正年間に創業した老舗旅館で、伊香保では十二支の第一番を意味する「子(ね)」の湯の称号を持ち、かつての功績で伊香保源泉の総湧出量の4分の1強に当たる毎分1,000リットル強の権利を持っているためか、ダイナミックに湯が流れています。毎晩、カミさんから「お父さん、早く風呂に入ってよ。湯が冷めるよ」なんて言われている身からすれば「勿体ない」を100回繰り返してもお釣りがきそうな贅沢さです。現実にこのホテル、26の湯を持ち、有料の8湯を除けば宿泊客は誰でも18湯を楽しむことができます。2日間で3回、時間にしてトータル5時間ほど浸かりました。部屋には敷地内から湧き出る自然の軟水を活用した露天風呂が付いており、目の前に榛名山系が屹立しています。「ああ40年前、同世代の連合赤軍を名乗る輩が、あそこで総括やリンチを繰り返していたんだなあ」と瞬時、過ぎし日を思い出しました。

 このホテルの特徴は潤沢な湯とともに、どの部屋からでも上州の山々が望めることです。例えば北東には遠く雪を冠った仙の倉山、万太郎山、谷川岳など2000メートル前後の谷川連峰がかすかに望め、正面には写真のように1100メートル前後の十二ヶ岳、中ノ岳、小野子山が3つのコブのような形で連なります。そしてやや南東の黒檜山(1828m)、地蔵岳(1674m)、荒山(1572m)の赤城連峰も遠く雪を冠っているではありませんか。登山をこよなく愛する人から見れば垂涎の的であり、また登山音痴の私の説明にまどろっこしく感じて「おい、下手な文章よりきれいな写真を見せれば一発じゃ」と思っておられるでしょうが、どうかご容赦を。いい写真がないのです。

 湯もいい、山もいい。これだけ上州をほめたのですから、最後に悪口を。泊まった旅館がそうなのかもしれません、食道楽の大阪から行ったからかもしれませんが、食いもんがとにかくお粗末なのです。晩飯のメニューは、マグロ、ボタンエビなどのお造りや活けアワビの石板焼き、タラバガニ等々やしゃぶしゃぶなどが中心の完全な日本版「無国籍料理」。魚なら金沢や新潟、大阪や三重・和歌山で食えば美味しくいただけます。なぜ新鮮な山の幸などを食わせてくれないのでしょうか。しかし考えてみれば、他にこんにゃくやネギなど以外に美味しいものがないのが上州の特徴なのですね。また米も美味しくないから必然的に酒がまずい。「赤城山」はまあまあでしたが、総じて私の「口には合いません」(あくまで外交辞令で、正直良い酒がない)。やはり利根川が肥沃な土壌を運んでしまい、上州の土地は昔から農作物などの収穫には向いていないのでしょうね。上州の皆様、また上州をこよなく愛する皆様、ご無礼お許しください。しかしこれがオヤジの正直な感想です。

 でも3人で約束しました。秋には紅葉で真っ赤に燃える上州の北端、水上温泉に行こうと。



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2010年01月27日

「古代史の楽しみ方」―桜井茶臼山古墳を例にA

QOOXNPOPROn 2.JPG《副葬品としての鏡》
 箸墓古墳と西殿塚古墳は宮内庁指定の陵墓のために学術発掘はまだだが、上述した他の古墳から出土確認された鏡(銅鏡が中心)を大分類すると、桜井茶臼山古墳が三角縁神獣鏡26面分、内行花文鏡9面分、その他46面分、黒塚古墳が三角縁神獣鏡32面、画文帯神獣鏡1面、椿井大塚山古墳が三角縁神獣鏡32面、画文帯神獣鏡1面、内行花文鏡2面、その他1面以上(?)とされている。
 桜井茶臼山古墳では鏡の全数81面分のうち三角縁神獣鏡が26面分で、それ以外が55面分とその構成比率に特徴がある(鏡の枚数が面分となっているのは、盗掘などの際に踏まれて破砕されたことなどによって、すべてが小さな破片になっているため)。桜井茶臼山古墳の被葬者は、三角縁神獣鏡以外にも多様な鏡(内行花文鏡やその他の鏡の多くは中国製)を入手できる力を持っていたとも推定される。

《壺と丸太垣》
 桜井茶臼山古墳で竪穴式石室がある後円部の墳頂には、南北長11.7メートル、東西幅9.2メートル、高さ約1メートルの盛り土の方形の壇が築かれ、その外側は約150本の丸太垣で囲まれていたようだ。柱の直径は約30センチ、高さは約2メートル以上と推定される。さらに方形の壇の周りには、土師器壺(高さ44.3センチ、最大径37.9センチ)が並べられていたことが推定される。
 これらの丸太垣や壺は、多くの古墳で一般的に配置された埴輪の起源につながるのではとも考えられる。ただ桜井茶臼山古墳よりも前に築造されたと推定される箸墓古墳で配置されていた「特殊埴輪」が、桜井茶臼山古墳では使われていない。この「特殊埴輪」は、吉備(現在の岡山県全域、広島県東部、香川県島嶼部及び兵庫県西部にまたがる古代有数の地方国家のひとつ)で弥生後期頃に使われていた「特殊器台」の影響を受けており、そのことから「ヤマト政権」の成立に吉備が強く関わったことを示している。

《大量の水銀朱》
 桜井茶臼山古墳の竪穴式石室の内部は、水銀朱を塗布した多くの石材と天井石に囲まれ、赤く彩られていた。石材の表面積から推定換算すると、少なくとも200キロ以上の水銀朱が使われていたことが推定される。当時、水銀朱の入手は容易ではなく、大量の使用例では弥生時代後期の吉備の楯築遺跡(岡山県倉敷市矢部)の墳丘墓(双方中円型)で30キロの使用が著名例とされる。また古墳時代では4世紀前半の天神山古墳(奈良県天理市、全長103メートル)での約40キロが知られている。
 これらと比較しても、桜井茶臼山古墳の200キロは突出した使用量といえる。ちなみにこの水銀朱の産出地の特定は容易ではないが、3世紀後半時点では四国の吉野川沿いに水銀朱の産地があったことが知られている。

《東国との関係》
 桜井茶臼山古墳は、三輪山の南の初瀬谷への入口に面した位置、鳥見山の北麓に築かれている。ここから東に向かうと宇陀、長谷、榛原を経て、伊賀・伊勢方面に通じる。まさにこの地は、大和盆地東南部から東へ抜ける交通の要衝の地だ。
 桜井茶臼山古墳の周辺の集落遺跡などで発掘される土器では、東海系土器の比率が高い点からも当時の「東国」との何らかの関係が推定される。

《桜井茶臼山古墳の成果についての特別展が開催されています》
 上記のほかにも桜井茶臼山古墳は、箸墓古墳に次ぐ時期に築造された大和盆地の古墳の中でも際立った様々な特徴があり、古墳時代の社会の成立、支配層の関係などを考えるうえで多くの資料をそこから得ることができる。
 ちょうど1月31日までの期間で、橿原神宮に隣接した橿原考古学研究所附属博物館(近鉄電車橿原神宮前駅から徒歩15分)で、「桜井茶臼山古墳の成果についての速報展」が開催されている。常設展や資料室も充実し、全国的にも最も優れた歴史ミュージアムのひとつだけに、ぜひお出かけ頂くことをおすすめしたい。入館時間は朝9時から午後4時半まで。(奈良屋嘉兵衛)>(写真は桜井茶臼山古墳を上部から撮影したもので、その全容がほぼわかる)


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2010年01月26日

「古代史の楽しみ方」―桜井茶臼山古墳を例に@

QOOXNPOPROn 1.JPG 奈良盆地の東南端、奈良県桜井市外山にある「桜井茶臼山古墳」は、古墳時代前期前半(4世紀初頭)の前方後円墳として注目を集めています。そこで古代史研究家の奈良屋嘉兵衛氏に、この「桜井茶臼山古墳」を例に古代史の楽しみ方を報告していただきました。奈良屋氏は長きにわたって某大手商社に勤務され、中国赴任も経験されるなど第一線で活躍されてきました。一方で古代史の研究にも造詣が深く、持ち前のフットワークで現場調査も活発に出かけられています。もちろんこの方も正真正銘の団塊世代です。
「桜井茶臼山古墳」は新聞等メディアで色々取り上げられているため、あらためての詳報は避け、この古墳の興味深いところについてメディア報道を補足説明的に紹介したい。その前にまず、古墳・古墳時代についての一般論をご参考までまとめてみる。

《古墳・古墳時代について》古墳時代の前の弥生時代では、各地域の支配者層を葬った大型の墓は様々な形状で盛り土をされることが多く、総称して「墳丘墓」(また周囲に溝が設けられた墓は「周溝墓」)という呼称がつけられていた。ちなみに朝鮮半島の影響が強い九州西北部では、複数の大きな石が置かれる「支石墓」も多く作られた。
それが弥生時代の終末期になると、墓に葬られた祖霊を祀る儀式が定期的に行われるようになり(「首長霊祭祀という新たな信仰形態の出現」と言えるかもしれない)、それに伴って墳丘墓の形状や副葬品も変化し、儀式のための祭壇的施設を持つ墳型や祭祀具的な副葬品が多く伴われるようになってきた。
弥生時代の「墳丘墓」などがこのような特徴を持つようになり、さらに前方後円墳という定型化された墓制により、各地の支配者層(首長)が何らかの序列?に基づいた政治的関係を持ち始めて古墳時代がスタートした。(そのような特徴をもつ墳丘墓のことを、総称して「古墳」と呼ぶ)
古墳時代は3世紀半ば頃から始まり、6世紀まで続く。全長約100メートルを超える大型の古墳がつくられたのは欽明天皇(509〜571年)の頃までで、その後、仏教の伝来という新しい信仰形態の普及とともに寺院が建設されるようになるとともに古墳は小型化して目立たなくなって終末期を迎える。646年の薄葬令により公式には終焉した。

《古墳時代前期》3世紀末から4世紀初めが「古墳時代前期」と呼ばれる。有名な箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)などは3世紀半ばまで遡れる可能性が強くなってきているが、この古墳登場期に近い古墳は「初期古墳」、特に初期の古墳は「出現期古墳」と呼ばれる。
また、前方後円墳という形状の起源については諸説があり、出雲の四隅突出型墳丘墓(西谷3号墓など)、阿波の突出部がついた円墳(萩原2号墓)、さらに吉備の特殊器台(埴輪の原型)など各地の埋葬手法についての様々なアイデアが含まれたことを考えると、それらの各地の支配者の合議によって大和盆地にいわゆる「ヤマト政権」が樹立され、その象徴の一つが前方後円墳であったとも推定されることがある。なお鏡などの多様な副葬品を伴う手法は、北部九州の影響があるのではとの説もあるが、この点については邪馬台国東遷論を含む邪馬台国論争にも関わるため、もっとも意見が分かれるところだ。

《前期の大型前方後円墳》大和盆地東南部を中心とする前期前半までの大型前方後円墳で主なところでは、推定築造時代(3世紀半ばから4世紀初め)順に次の通りになる。
@墓古墳(全長以下同280メートル、JR桜井線纒向駅の近く)A西殿塚古墳(234メートル、長柄駅の近く)B桜井茶臼山古墳(200メートル、桜井駅の近く)C黒塚古墳(130メートル、柳本駅の近く)Dメスリ山古墳(224メートル、桜井駅の近く)。なお全長は、発掘が進むにつれてわずかに変化する。
また大和盆地内ではないが、北部に隣接する木津川沿いの山城(現在は、京都府)に、3世紀末の築造と推定される椿井大塚山古墳(同175メートル)も出現期から前期時代では重要な古墳の一つといえる。

(写真は昨年10月29日に開かれた桜井茶臼山古墳の現地説明会。多くの人の熱い視線を浴び、その関心の高さを示した)
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2010年01月25日

百歳万歳C「お父さんいつまでもお元気で」、しかし心配事がひとつ…

.JPG 1さて今から14〜15年前、母が地元町の病院で入退院を繰り返すことになります。母の付き添いで、父の病院通いの始まりです。入院時には、こまめに食事などの世話をしたりずっと母のそばで本を読んだりしていましたが、もともと人との交流を大切にする性格です。病院内の介護師さんや事務局、売店の人などとの交流が活発化します。父も男ですから、若い介護師さんは特に気になります。時あたかも1997年、町は中国・西安市から毎年同病院に介護研修生を受け入れ始めました。主に若い女性の介護師さんが二人ずつ1年間派遣されます。この制度は現在も続いており、これまでに看護師30人近くが西安市の病院や衛生局から来町しています。その初代の介護師さんと父は親しくなったのです。
2自宅に招いて食事をし、逆に彼女たちの寮に招かれ西安料理に舌鼓を打つ。菜園の柿や野菜、生協から配達された魚などを差し入れる。それ以外にも微に入り細をうがつ、まめまめしさです。当然、1年の研修を終えて帰国後も手紙や電話でのやり取りは続きます。後年、初代看護師の息子さんを短期でしたがホームステイで世話したぐらいです。後任の研修生ともすぐに打ち解け、いまもなお歴代の研修生たちとずっと交流が続いています。ただ誤解があっては困りますが、決して母の介護に手を抜くのではなく、母には相も変らぬ愛情たっぷりの介護に精を出していました。母も「お父ちゃんの息抜きになれば」とじっと見守っていたと思います。
3父にしてみれば、異郷の地でけなげに研修する彼女たちの姿が、かつて同じ県内とはいえ東の端から西の端に養子に出た時の気持ちとダブったのでしょうか。はたまた自分の孫たちが遠方に住んでほとんど日常的接点がない中、彼女たちが本当の孫に思えたのかもしれません。私など親不孝な息子の行動記録は一切父のデータ外ですが、ほとんどの研修生の自宅と勤務先電話番号、生年月日や結婚記念日、はたまた子供の誕生日などまでしっかり記録されており、親しかった看護師さんの結婚祝いや出産祝いなど欠かしません。その父にとって一番の心配や願望は、中国の孫たちが元気で暮らしいるかどうか、電話の声や写真などではなく実際に会って確かめたいということでした。しかし高齢に加え母の体調もあり、とても言い出せません。2002年ごろから母は重篤になり完全な病院暮らしで、2007年3月に亡くなるまで家には帰れませんでした。そうなると父は日曜から土曜日までの一週間、それこそ朝8時前から夕方の6時ころまでずっと母と一緒の病院暮らしで、往復は片道千数百円のタクシーでした。個室でしたから他の患者さんに迷惑はかからず、看護師さんと一緒に入浴や三度三度の食事の世話をするかたわら読書や木彫り。最初のころ週に一度は個室に泊まっていましたが、風邪や院内感染を理由に家族や病院側の注意であきらめざるを得ませんでした。そのころ病院や近所で「90歳を超えた人が80数歳の病人を毎日介護している」といった噂が立ち、逆に見舞い回数の少ない家族が白眼視されているようで肩身の狭い思いをしたことを覚えています。一方で、病院内での活動は一段と活発化しますが、「中国には行きたいが、とても口にはできない」。当時の父の正直な気持ちだったはずです。
4そこで私が声をかけました。仕事の関係で上海など中国との交流を深め西安にも数度行っており、私たち夫婦が連れ添う形で実現しました。2005年、父は95歳になっていました。岡山から上海でトランジットして、西安空港に着いたのは予定より大きく遅れて夜の12時ごろ。出迎えの約束でしたが、さすがにこの時間では無理と諦めていました。しかし何と出迎えロビーには、「おじいちゃん」「おじいちゃん」と日本語で騒ぐ集団が居るではありませんか。3泊4日の西安滞在中、宿泊のホテルで、勤め先の病院で、昼夜の食事会で、市内観光で、それぞれ勤務時間をうまくやり繰りするローテーションを組み、見事に彼女たちは日本の「おじいちゃん」を歓迎してくれました。父も兵馬俑など有名観光地の見学は二の次で、絶えずニコニコと彼女たちと肩を組んでカメラに収まっていました。最終日の夜には、夜勤などで参加できない2人の研修生を除く全歴代研修生がその家族を含め15〜16人集まりました。父は涙ぐみながら「中国の孫たち」に、感動の大演説で謝意を伝えました。正直、西安に着くまでは半信半疑でした。「たかが一年の研修期間でそんなに交流が深まるわけがない。父が一方通行で思っているだけで、彼女たちは迷惑かもしれない」などと。しかし片言の日本語で、必死におじいちゃんと近況や思い出などを話す彼女たちの笑顔を見てその危惧は吹っ飛び、「これが父の元気の源泉だ」と実感しました。
53年前に母が亡くなり、さすがに毎日の病院通いはなくなりましたが、それでも一週間に3度は病院に顔を出しています。うち1日は彼女たちの出勤前に寮に行き、朝ごはんを食べたり同伴出勤しているようです。もちろん歴代の研修生との交流は続いており、一年前にはそのうちのひとりが父に会うためにわざわざ西安から自宅に来て泊まってくれました。
6父にいつまでも元気でいてもらいたいのは、言うまでもないことです。しかし心配事があります。私を含む家族に直接のリクエストはないのですが、町や病院の知人、旧知のタクシードライバーなどを通して、「病院の看護師さんが一緒に行こうと誘ってくれる」「孫たちが盛んにおじいちゃん、おいでと言ってくる」等々の父の思惑が耳に入るのです。
7ひょっとしたらある日の地元紙に、「平成の空海、100歳で西安へ」なんて見出しが載るかもしれません。(おわり)

写真は、昨年「看護師研修生に対する物心両面の支援などで国際交流に尽力している」として町から表彰されたことを思い出して、再び町長さん(右)とパチリ

【お詫びとご報告】つい長々と綴ってしまいました。饒舌な独り言に本人も呆れています。それと昨24日付、操作ミスで再投稿したためダブりました。相変わらずドンくさいですね。ご容赦ください。

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2010年01月24日

百歳万歳B木の下で一人、春日八郎を歌う

.JPG父の生まれた明治43(1910)年には日韓併合や大逆事件などがあり、日本にも世界にもキナ臭さが漂い始めていました。4年後、第一次世界大戦が始まります。
1実は父は婿養子で、生まれ育ったのは同じ岡山県内でも東端の和気郡備前町(現備前市)香登といって備前焼で有名な町です。4人兄弟の次男坊で学卒後教職に就いていました。昔から「男、小糠3合あったら婿養子に行くな」といわれていますが、叔父のすすめで備前から備中に養子に行ったのです。父のぼやきを聞かされていました。「資産家だと聞いていたのに、実際には落ちぶれ地主だった」と。確かに母の生家はかつて質屋を営んでいたり、お祖父さんが村の助役を務めるなどで恵まれた幼少期を過ごしていたそうです。しかしいろんな事情が重なって実家は事実上崩壊し、家屋敷は空き家状態になっていました。結婚後に2人が暮らしたのも父が教員として働く大分県や兵庫県など県外で、実際に婿養子先の現在地に父が住み始めたのは戦後復員してからです。私の長姉は大分県中津市、福沢諭吉の生家近くで生まれ、長兄は神戸です。父が神戸市立楠木高等小学校に勤めていた時の教え子の一人が、お笑いタレントから大阪府知事になった故横山ノック氏で、ノック氏の話題が出るたびに「山田勇君(ノック氏の本名)は大人しいいい子だった」と話していました。
2終戦間近に召集され、外地にこそ行かされませんでしたがいろいろと苦労したようで、いま耳が遠いのも軍隊で上官に叩かれたことが原因だと言います。とはいえ父の几帳面な性格を裏付けるエピソードがあります。明らかに軍律違反でしょうが、なんと兵役時代に毎日こっそりと日記をつけており、今でも大切に保管しています。日記は100歳になった今でも毎日、欠かしたことがありません。
3昭和20年の終戦で復員、現在地で生活が始まります。地元自治体などの要請で「木工授産所」を設立し、その指導に当たりました。復員しても仕事がなかったり、手に職を持たない青年たちに就労の場や技能取得を手助けする施設で、住む家を持たない人のために自宅屋敷内に寄宿舎も建てていました。私自身、保育園に通うころまで事務等を手伝う母に連れられて家から15分ほどの授産所に出掛け、生徒が作った机や椅子などを近隣の学校に納品する際にトラックに乗せてもらった記憶があります。
4その事業が一段落した後、少しの間知人の仕事を手伝い、再び教職に復帰します。父の性格を聞かれた時、誰に対してもまず胸を張って「辛抱強さ」と答えますが、それは教職に戻ってから退職するまでの10余年間、実際に背中を見てきたからです。自宅から職場まで雨の日も風の日も毎日、自転車で1時間強通勤する姿は子供心にも頭が下がる思いがしました。朝7時前に家を出て、夜は早くても7時過ぎに自転車のブレーキの音を聞く。その辛抱強さで4人の子供を育ててくれたのだと頭では理解できても、今もって自分には真似はできなかっただろうと思うのです。
5婿養子の上に県外で暮らしていた関係で周囲には親しい知人も皆無だっただろうし、酒で紛らわす術も知らない。時には食事時に飯台をひっくり返したり、いたずら息子には裏山の大木にくくりつけるような荒業も出ましたが、家付き娘の母と喧嘩したときなど、そっと家を抜け出すことも多々ありました。後になって知ったのですが、裏山の木の下で春日八郎の“泣け〜た、泣けた〜”と「別れの一本杉」などを歌っていたそうです。
6やがて教職も定年を迎え、民間企業にしばらくお世話になりました。完全に第二の人生に入ったのは60歳代後半でしょうか、その頃になると地元に完全に溶け込み、周囲からも「先生、先生」といって頼りにされる存在になっていたのです。好きな旅行にも頻繁に出かけ、趣味の木彫りや地元子供たちへの備中神楽の面作り指導などにも精を出すのんびりした日々が続きます。それは母が病で長期入院に入る15年ほど前まででした。
7ところで木彫りですが、上記写真にある盆や手鏡など以外に、菓子器、茶托、銘々皿、花生け、重箱など小さなものから大きなものまでいろいろあります。木地だけは購入しますが、デザイン、彫刻、色付け、漆塗りなど含む仕上げまですべて自分で手がけます。80歳前半までは彫刻刀にもしっかり力が加わり、作品を地元文化祭にも出展していました。木地代だけで最低月50万円近く仕入れていたようです。しかしここ数年の作品を見ると、手がける数量はそれほど変わりませんが、さすがに線の深さなど握力の衰えを隠せません。その分、デザインなどには味が出ており、まだまだ木彫りを楽しみそうです。昨年末、地元部落の皆さんが祝ってくれた100歳記念会では、15人の出席者一人ひとりにお盆などの自作品をお渡ししていました。
訂正】「自分の母親の享年を間違うとは何事か」と、ブログを読んだ姉から叱責されました。前回23日付けで「翌年に60余年間連れ添った85歳の老妻を亡くして…」と書きましたが、正確には90歳です。訂正します。どうも私のほうがぼけているようです。さっそく、西に向かって「お母さんごめんなさい」と手を合わせました。
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2010年01月23日

百歳万歳A長生きの秘訣は「くよくよしないこと」

.jpg 大安でぽかぽか陽気の20日水曜日、自宅には朝9時ごろから県や町の関係者、地元マスコミなど20人を超える人たちが表彰やお祝いにこられました。多少腰が曲がり耳も遠くなってはいますが、補聴器の助けを借りながらも記者の質問や皆さんの励まし・お祝いなどにはきはきと応える様は、「一体全体、誰が100歳か見分けがつかない」(町長)との冗談が冗談ではないほど、かくしゃくとしたものです。
「いい思い出を頂戴してありがとうございました。いろいろと用心して、一日でも長くこの世に居らせていただきます」とお礼の言葉を述べる父。ひょっとしたら、まだ元気に相当長く頑張ってくれるのではないか、酒浸りで不摂生極まりない私の方が先に迎えられるのではないかと思ってしまいました。
私が生まれ育ったこの町は旧山陽道の宿場町で、西国の諸大名やあの篤姫も泊まったという本陣でちょっとだけ有名になっている以外は、これといって何も特色のない純農村地帯です。人口は約16,000人の過疎地ですが、町長さんの説明では今年3月末までに100歳になる人、つまり父の同級生が12人を数え、この人たちを含め100歳以上の上寿を称えられる方が23人とかなりの長寿町です。それでも病院や介護施設のお世話になったり、自宅で寝たきりに近い方が多い中、「このように賑々しくお祝いできる」(町長)のは、父がいたって元気で、しかもたった一人で暮らす「独居老人」だからでしょうか。4年前に64歳の長男に病で先立たれた時は「親不孝が!代われるものなら代わってやったのに」と棺にすがって号泣し、また翌年に60余年間連れ添った85歳の老妻(私の母)を亡くしてさすがに意気消沈していましたが、不死鳥のごとく元気を取り戻してこの日を迎えたのです。
記者に長生きの秘訣を聞かれ、「とにかくくよくよせず、人との付き合いを大切にすること」と応えていましたが、心配で同居を迫る子供たちの誘いにも頑として応じず、「自分のことは自分で」とマイペースで生きるのが実は長生きの秘訣かもしれません。奈良漬けの匂いを嗅いだだけでも酔っ払うという超下戸で、もちろんタバコは大嫌い。読書、旅行、カメラ、そして玄人はだしの木彫りを趣味としています。誰とでも気軽に話し、頼まれたら公民館の館長やお寺の檀家の代表なども気軽に引き受けていました。しかしここ20年ほどは、父にとって最大の生きがいは「中国」といっても過言ではないでしょう。
父のこれまで歩いてきた道のりとキーワードの「中国」については、次回以降に譲ります。
(記者の質問に応える100歳の父)
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2010年01月22日

百歳万歳@明治43年生まれの父は紀寿を迎えました

 明治43(1910)年1月20日。岡山県の西南の田舎町で暮らす私の父が生まれた日です。そうです、今週の20日水曜日、父は見事に100歳を迎えたのです。99歳は白寿で、100歳は上寿、百賀、百寿などと呼ばれますが、上寿は一般的にかぞえで100歳以上のお年寄りを称えます。そういった意味で、世紀を超える「紀寿」がぴったりだと思います。3回ほどの連載で明治、大正、昭和、そして平成と激動の4代を生き抜いてきた父の足跡やその長寿の秘訣を綴ろうと思います。
 実は、元気な写真なども準備しているのですが、現在新幹線車中でしかもミニPCのためにディスクの容量が小さく、さっぱり駄目です。原稿も一度、オジャンになってしまいました。明日から少し落ち着いた場所でアップします。


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2010年01月21日

中国東北紀行B貧乏親父のチープ旅行だけに余計寒い

^5.jpg ハート結局、ハルビンでうろついたのは、「中央大街」「スターリン公園」「兆麟公園」「太陽島」「ソフィスカヤ寺院」それにハルビン駅前だけで、3泊4日の割にはまことに実りの乏しい旅となった。
 スペード「中央大街」(全長1450メートル、幅21メートル)はハルビン観光の中心地。ロシア時代には「キタイスカヤ(中国人街)」と呼ばれたところで、多くのロシア式建物が残り、歩行者天国となっている。通りのところどころには氷の彫像が置かれ、夜には照明に浮かび上がる。彫像によって、ライトの色は青や緑、赤などと異なる。彫像の前で、あるいは氷の基壇に上がって、カメラに向かいポーズをとる観光客が多い。
 ダイヤ周りの建物もライトアップされ、何本ものサーチライトが空を照らす。2010年を迎えるカウントダウンのイベントも、この通りで開かれた。いったんはホテルのベッドに潜り込んではいたものの、のこのこ起き出して見に行った。
 クラブハルビンでは、餃子が主食と言われる。この中央大街にも、ガイドブックで紹介されている有名餃子店があり、試しに入ってみた。豊富な種類の中から2種類選んで食べたが、拍子抜け。量はあるものの、そうおいしいものではなかった。日本の「王将」の焼き餃子に馴染んでいる舌には、味が感じられない。それより、これ以上ないだろうと思われるような、店員のやる気のない態度と仏頂面にむしろ感心した。
 ビル兆麟公園では、「第36回ハルビン氷灯芸術遊園会」が開かれていた。今年は「ハルビンディズニー氷雪遊園会」のテーマで、ウォルト・ディズニーの作品に登場する様々な宮殿や城などを氷で再現する。切石を積み上げて建物を作ると同じように、氷のブロックを積み上げて宮殿や城などを作る。色とりどりの照明による氷内部からの透過光が、幻想的な雰囲気をかもし出す。ハルビン滞在中、唯一ここで日本人に出くわした(小姐連れ?)。
 トイレ太陽島では「第21回中国ハルビン太陽島国際雪彫芸術博覧会」が開かれていた。雪の彫刻だ。寒さが関係しているのだろうか、精緻な彫刻が出来上がっている。制作中のものもあり、雪のブロックを高く大きく積み上げてから、十数人の人が、のみで刻んでいく。
 いす数多くの雪像をゆっくりと時間をかけて見たいのだが、途中で手足の先がしびれてくる。辛抱できなくて飛び込んだ園内の「茶店」の、コーヒー(と言えるような代物ではないが)がコップ1杯30元。街中ならば、蘭州ラーメンの大盛り1杯が4元で食べられる。足元を見たその高値に驚く。(最近の相場で1元=13.3円)
 かわいいカネの話が出たついでに言えば、氷灯芸術遊園会の入場料は午後6時からの夜の部だと大人ひとり100元、国際雪彫芸術博覧会は150元と極めて高い。貧乏親父の泊まったホテル(準三ツ星)は朝飯付き1泊178元で済んだというのに。
 飛行機さらに言えば、上海からハルビンへの東方航空の飛行機代は490元(諸経費込み、12月29日)、ハルビンから上海へは1180元(同、1月1日)だった。需要を見ながら決め細かい料金を設定しているのだろうか。往復での、これだけ大きな差も不思議だった。(フーテン)
写真はロシア正教のソフィスカヤ寺院―ハルビン市建築芸術館、入場料20元

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2010年01月20日

中国東北紀行A 氷点下22℃の世界

^2.JPG 15日付けで中国東北旅行紀を投稿していただいた上海「フーテン」さんの第二弾です。あす付けで第三弾を掲載します。本人は「ウツボおやじが勝手に『中国東北紀行』と仰々し銘打ちながら、実際はハルビンの、それも極めて限られた観光スポットしか見ていないのでご容赦を」と謙遜していますが、なかなかどうして経験できるものではありません。「えっ?大金もらっても氷点下ン10度のところなんかに行かないって」。まあそういう人もいますけで、「フーテン」さんは果敢に挑戦したのです。

 雪昼間で氷点下22℃(あるいはそれ以下)のハルビン市内をうろついた際のいでたちは、防寒下着(パンツ、パッチ2枚、タートルネックのシャツ)、靴下3枚、ウールズボン、タートルネックの綿起毛カットソーシャツ、タートルネックのカシミヤセーター、ハイテクポリエステル中わた入りのジャンパー、防寒フード付きのダウンジャケット(「ユニクロ」の定価1299元のものを、999元で値引き販売されるのを待って買った)、凍てついた道でも滑らないような冬用の頑丈な靴、手首を締められる分厚い手袋――というもの。
 ふらふらこれだけしっかり着込むと、長時間外にいても、夜中になっても、身体自体はあまり寒さを感じない。しかし、問題は手足の指先。頑丈な防寒手袋を着け、分厚い靴下を3枚重ねではいていても、冷えて痛い。そのうち感覚がなくなりかけて、凍傷の恐怖に襲われる。とくに手の指先の冷えがつらい。しばらくすると痛みが和らぎ、普通の感覚で動かせるようになるものの、時間が経つとまた耐えられなくなる。そういうときには、近くに店があれば遠慮なく飛び込むに限る。商品を物色するそぶりで、手足が温まってくるのを待ち、また外へ出る。
 ちっ(怒った顔)フードはかぶっているものの、外気にさらされる顔面もひりひりと痛い。ふとした弾みで眼鏡が息で曇る。慌てて外し、いつものように振って曇りを蒸発させようとすると、却ってすぐそのまま凍り付いてしまう。氷の眼鏡をもう一度かけ、体温で溶けるのを待つしかない。凍てついた道路を、滑らないように踏ん張って歩くと、脚の普段使わない筋肉がこわばってもくる。
 むかっ(怒り)この旅行には、デジタルカメラ2台(一眼レフとコンパクト各1台)を持っていった。手袋のままでの不自由な操作はともかく、聞いてはいたものの厳しい寒さの中で電池の減りがことのほか速い。警告マークが出て、持参していた充電器で毎晩のように充電することとなった。
 わーい(嬉しい顔)こういう中でも、手袋を着けず、フードもかぶらずに平気で歩いている人(男女ともに)をよく見かける。OL風の女性が、ジャケットにブラウス、スカートで外出しているのにも出くわした。仕事をしていたそのままの姿で、昼の食事に出ているようだ。気候に身体が馴染んでいるのだろうか。驚異と言うよりほかない。
 がく〜(落胆した顔)尾籠な話で申し訳ないが、男性の立ちションをしている場面にもしばしばぶつかる。じっくりと見たわけではないものの、巷間言われているように、放出の途中で凍るということはないようだ。気温がさらに下がれば、そうなるのかも知れないが。(フーテン)
(写真は凍結した松花江とハルビン市内を望む)


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2010年01月19日

足摺のDolphinさん―そもそも「うつぼ」とは

2010011723200000.JPG また新しい仲間が増えました。「足摺のDolphin」さんです。Dolphinとはスズキ目・シイラ科に分類される魚の一種で一般名「シイラ」。全世界の暖かい海に分布する大型肉食魚で食用に漁獲され釣りの対象としても人気が高く、和歌山や高知あたりでは「トウヒャク」「トウヤク」などと呼ばれています。ご本人が何故Dolphinと名乗るのかは定かではありませんが、ひょっとしたら「何にでも食らいつく」の意でしょうか。おいおいその素性は明らかにされるとして現在、足摺岬で有名な高知県土佐清水市の在住です。長い間、キャプテン(船長)やチーフ・オフィサー(一等航海士)として海外航路で活躍し、また海外駐在も豊富です。当年とって67歳のナイスガイです。

 1ブログへの投稿を要請された時、最初に浮かんだのは会社のロケーションが靭(うつぼ)公園近くだということ。自分の脳裏には、靭公園⇒「テニスコート」⇒「デ杯・Fedcup」とイメージされるからだ。ただ現在は怪我のためにローカルのシニア・テニスから離れて久しく正直、靭公園・センターコートを連想する熱意に欠ける。それは多分に、ここ10年余の田舎暮らしでその華やかさとは無縁の生活に慣れてしまったからかも知れない。
 2さて当ブログのタイトルであるウツボが、魚の「うつぼ」の意味であると仮定して、本題の「靱・うつぼ」論議に入る。ここ土佐清水・足摺地方の漁師や土地の人は「うつぼ」のことを「おつぼ」と発音する。もし「うつぼ」と上品に発音する人がいれば、それは多分、他所からの方か漁師とは無縁の人である場合が多い。しかし最近では、その調理法や食べ方によって酒のアテとして珍重されるなど、市場では結構な高値で取引されている。そこで当地方においても、時期的には「おつぼ」の専業漁師が珍しくはないようだ。昔は「おつぼ」を獲るのは他の魚の外道か、よほどの暇つぶしとされていた。ところが状況次第では、主役をも喰ってしまうらしい。
 3「おつぼ」は主に3種類に分けられる。メジャーとしての「まー(真)おつぼ」は、その黄色の表面に黒茶のまだら模様があり虎の毛皮模様をしている。普通に「おつぼ」と言えばこれを指す。2番目が「こめ(米)おつぼ」で、臙地(えんじ)に米を撒いて拡げたような模様をしている。見た目は非常にシャープで、精悍にして獰猛である。そして3番目が「あぶら(油)おつぼ」。これは一見、ウナギやアナゴ、ハモに似ており、顔つきや色合いに品がない。
 4次に彼らの生態系や捕獲方法に触れる。まず黒潮など比較的温水域における浅瀬の岩礁、珊瑚などの割れ目や穴の中を棲みかとし、太平洋側における北限は三陸沿岸付近ではないかと想像される。土佐湾沿岸でも海水の比重の軽い四万十河口など、いわゆる汽水域における生息は少ないのではないか。彼らの海中における移動は、その身体をくねらせて岩の表面または床から高くない水中を這って縫うように泳ぐ。そのスピードは非常にスローだ。一般の魚のように大きな胸鰭(むなびれ)がないためだ。従って餌を捉えるのは床上に静止しているものか、鎌首を伸ばして届く範囲のものに限られる。
 5ただ鋭い嗅覚の持ち主であって、「おつぼ」の漁には彼らの嗅覚を逆手にとって利用する。つまり漁具は通常「おつぼ」籠と呼ばれ、50年の昔には文字通り竹で編まれた筒状の籠であったが、現在では塩ビパイプで漁師さんたちは自作している。その形状はウナギ籠を大きくしたようなもの(太さ15cm x長さ150cm の円筒形)。その中に餌として魚のアラや臓物などを入れ、狙いを定めた水域の海底に仕掛ける。成果は1にも2にもポイントと餌である(臭い餌ほど期待大)。餌の匂いに魅了された彼らは、筒の両端に装着されたソケットの穴から無理やり潜り込んで餌にありつく。彼らはその時点ではまだTrap(ワナにはまって捕獲されること)されたとは気づいてはいないはずだ。夕刻に仕掛けられた「おつぼ」籠は朝引き揚げられる。繰り返すが、その籠が重いか軽いかはポイント次第だ。
 6ところで「まーおつぼ」は、その色合いから地方によって「とらうつぼ」( Tiger Moray )と呼ばれている。今年は寅年、そこで阪神タイガースの成績次第では「とらうつぼ」も脚光を浴びるやも知れぬ。昨年末のドラフト会議でタイガースが1位指名した二神一人君の出身地、高知県幡多郡大月町小才角は土佐清水と宿毛の中間に位置し、拙宅からも車で30分の至近距離。国道上の橋には二神投手激励横断幕とともに名物のイカの一夜干しの幟群が北西の風にたなびく。その中には「まーおつぼ」の開きなども交ざっており、「二神君、同じTigersで頑張ろうよ」と呼びかけているようだ。
 7『Any way、今年は「おつぼ」のように強く、元気にいきましょう』。
(写真は足摺岬に咲く椿)
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2010年01月18日

箸やすめ―富士山はきれい

 新幹線移動中、車掌さんの案内で思わず車窓から眺めた富士山。天気も良く、勇姿がを拝みながら携帯で思わずパチリ。長文でお疲れと思います。箸やすめに…。2010011809440000.JPG
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全国女子駅伝で岡山チーム優勝に思う

2010011714450000 4.JPG 17日に京都で開かれた第28回全国都道府県対抗女子駅伝は、京都チームの6連勝がほぼ確実という下馬評を覆して、岡山チームが念願の初優勝を飾りました。岡山は最近でこそ5年連続5位以内に入っていましたが、1982年の第1回は何と45位でビリから3番目。それが優勝ですからオドロキ、モモノキ、サンショノキです。岡山県出身者としてはやはりうれしかったですね手(チョキ)
 いうまでもなく、実業団の天満屋と興譲館高校の力です。地方百貨店の天満屋は20年ほど前から女子陸上部を設立して山口や坂本、中村などのオリンピック選手を輩出しています。昨年末の実業団女子駅伝では惜しくも2位でした。また興譲館は10年ほど前に女子陸上部の設立と同時に招いた森監督という指導者に磨かれて、04年に今回アンカーで中村に次いで2位に入った千葉チーム(所属は豊田自動織機)の新谷の活躍などで岡山県勢として初めて頂点に立って以降、今や全国屈指の駅伝強豪校といわれています。ここも昨年末の高校駅伝では3位に終わっています。それだけに何とかして今回は優勝を勝ち取って雪辱したかったのでしょう。
 ところで天満屋の創業は1829年で約180年前、興譲館の創立もペリーが浦和に黒船で来た1853年で約160年前と、いずれも1世紀半を超える伝統を誇ります。その間、天満屋は大手百貨店やGMSといわれる大型スーパーとの競合で幾多の試練にさらされてきました。伝統私立校の興譲館も戦後から10余年前までは岡山県西部では最も荒れた「ワル」の集まりとされ、一時は地元で「学校の前は通るな。通るなら走れ」とさえいわれ、生徒数も激減していました。それが今では、全国的に百貨店経営が苦戦を強いられている中で地方百貨店の特徴を発揮して天満屋は健闘しているし、興譲館も女子陸上部や公式野球部の活躍と並行して進学率も向上しているそうです。共通するのは地域密着を主眼にしたBPR(業務活動の根本的革新)でしょうか。いずれにしても岡山の老舗企業と伝統校がともに力を盛り返し、それを駅伝のタスキが繋ぐという構図は新年から愉快であり、また元気づけられます手(パー)
 駅伝に絡んでもうひとつの話題。選手の胸のゼッケンには、すべて協賛企業「村田機械」の名がプリントしてあります。京都にある繊維機械や工作機械、情報機械、物流システムなどを手がける会社で、かつて村田英雄が「俺が村田だ」とCMで言っていましたね。この駅伝、スタートから数年はアシックスなどが協賛していましたが1989年の第7回からはずっと村田機械が単独で協賛してきました。 その間、環境が厳しいときに他社に協賛を依頼しても一向に色よい返事は来ず、逆に景気がよくなると協賛の申し込みが殺到したと同社の村田純一会長から聞いたことがあります。何しろ約2時間半にわたりNHKが全国ネットでずっと放映するのですから、その宣伝効果たるや絶大なものがあります。しかし協賛費用は一回数億円とされており、同社は良い時も悪い時もずっと継続して協賛してきたわけで、これが結果的には世界のトップクラスに君臨するマラソンを始めとした女子陸上長距離陣を育ててきたといっても過言ではないでしょう。
 有森も高橋も野口も走った冬の都大路。企業の「メセナ」活動とはそうありたいと思うのですが手(グー)(写真はトップでゴールインする岡山チームの中村選手−NHK放送から)
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2010年01月17日

1月17日「マグニチュード7.3の激震から」 1月17日「M7.3からの激震7日間」

2010011616220000.JPG 昨夜9時からの関西テレビ「神戸新聞の7日間」を見られましたか。大震災の恐ろしさがよみがえるとともに、あらためて新聞の使命およびその原点を確認することができました。当時、編集責任者として日刊紙を発行していただけに、神戸と大阪、一般紙と専門紙との違いはあっても、1995年1月17日午前5時46分からの激動の日々が体内に逆流してきました。
 大阪は震度4でしたが、市内最西にあって大阪湾内の埋め立て人工島、それも14階の高層マンションに住んでいたために大変な揺れでした。朝一番の新幹線で東京出張を予定しており、ちょうどお手洗いから出るところでした。まだ眠気の覚めやらぬ家族をたたき起こし、取り急ぎ入口のドアを開けたのを覚えています。テレビ等で正確な情報はほとんど入っていませんでしたが、これは尋常な地震ではないとの予感から、急遽出張を取りやめ会社に行くことだけを考えました。徐々に入ってくる情報、たとえばテレビに映し出された映像は想像を絶するもので、なんと高速道路が崩れて横倒しになっているではありませんか。
 通常、車だと20分ほどで到着するのですが、大渋滞で3時間近くかかりました。10時前、ようやく会社に着くと案の定、書棚などは見事に全倒。2〜3人ほどしか社員の姿はありません。フロアを整理しているうちに10数人ほどに社員が増え、そのうちの一人が開口一番言ったことが「本当にきょう新聞を出すのですか」。みんなの気持ちを代弁しているようでもありました。とっさに「当たり前やんか!わしらは日刊紙やっとんやぞ。手刷りしてでも出す」と怒鳴りあげたことを覚えています。やっと電話が通じた東京支社の記者連、「本社の連中横着ですねえ。大阪や神戸で何か事故があったそうですけど、どうなっているのですか電話にも出ず」とすっとぼけた連絡。この温度差何やろうと思いながら「とにかく書ける原稿、何でも送ってこい」と、またまた血圧が上がりました。
 昼になっても、西宮以西から通う8人ほどの社員にはさっぱり連絡がつきません。水など救援物資を用意した救援隊を組織して、他の役員に乗用車で被災地に向かってもらう一方で、とにかく日刊紙を組み立てて全国に送ることに全力を挙げました。幸い堺に本拠を持つ印刷会社は被害もなく印刷自体は心配ないのですが、発送体制が全滅していました。印刷できても、いつ読者の手元に届くか。そこで南海難波駅に新聞を届けてもらい、残った社員総出で東京方面の飛行機輸送、中部方面へのトラック輸送等々、従来ならトラックで簡単に運ばれる集合ターミナルへ軍手をはめて、エンコらエンコらと満員の地下鉄などを使って運びまわりました。最後の名古屋行きの吹田集荷場へ届け終わった時は、日にちが替わりかけていました。
 それだけ苦労しても、残念ながら18日付けの1面トップ記事は「ノーアイロンシャツ−海外版が上陸」といった記事にせざるを得ませんでした。大震災関連は、1面左に「大地震 近畿を襲う」と200字ほどのベタ記事に過ぎません。救いといえば1面下の人気コラム「ごえんぼう」に直接被害にあった伊丹住まいの記者が「わが身の異常なしを確認したあと、家族、そして身内が住む神戸を気遣う。電話がぜんぜん通じない、焦りと苛立ちを覚えるも時間が過ぎるだけ」云々と、体験者ならではの臨場感あふれるコラムを報じてくれました。
 未明に帰宅して少しだけ休み、翌日の朝5時過ぎから救援部隊として神戸に向かいました。直接1号線などを使って神戸にはいけず、有馬の奥、山の手から入りました。最後まで安否がわからなかった社員の家にようやくたどり着いたのはほぼ12時間後の午後4時近くでした。その途上、倒壊した家々の周囲で見た生々しい光景は今も忘れません。持っていたカメラのシャッターをを一度も切ることができませんでした。日常紙面では、19日付けから「多方面に甚大な被害」といった形で繊維業界の各企業や産地などの惨状、各種インフラの崩壊を伝えました。またコラム「ごえんぼう」でも「ごぉーうという地鳴りとともに激しい上下動が始まり、狂ったような横揺れが続く。部屋が、家全体がボール紙でできているように激しく揺さぶられびしびし、べきべき悲鳴を上げる。早く治まってくれ」といった、生々しい報告が載っています。一方で、3日目で3000人を超す犠牲者(最終的に6432人)の中には繊維関係企業の人も少なくなく、連日の訃報記事は辛いものでした。そういった犠牲者の中には若い人も少なくなく、1面トップで業界への深刻な影響を伝えた20日付け(写真上)の下段「ごえんぼう」では、大手商社繊維部門で日中貿易の橋渡しとして働く上海生まれ27歳の伍鳴さんという中国人女性の死を伝え、涙を誘います。返す刀でそのコラム氏は、東京都内である政党が永年勤続のパーティを盛大に開いたと報じ、政治家の厚顔無恥なる様を切って捨てました。
 このように連日生きた震災報道は続けましたが、何よりも情けなかったのは兵庫以西の中四国などの読者に連日未配達・遅配のお詫び記事を掲載しなければならないことでした。ただ40年近い新聞社人生の中で最も強烈だった「マグニチュード7.3からの1週間」で学んだ教訓の第一は、「日刊新聞社が毎日新聞を出さないのは死んだことと一緒だ」ということで、裏返せばどんな困難はあってもやろうと思えばできるということです。そして第二はこのような甚大な災害や教訓を風化させてはならないということ。確かに一般紙やテレビなどメディアは15年という節目もあって、このときとばかり大々的に報じていますが、日常的には徐々に薄れています。寂しいことにわが新聞は、一行も触れてはいません。たまたま16日の土曜日に会社に出かけ、出社していた加古川在住の社員に会いました。彼も15年前は被害を受け2週間ほど会社に出社できなかった経験を持ちます。その彼に「もう15年になるなあ」と問いかけると一瞬「何の話ですか?」の答え。確かに風化しつつあります。
 そして第三がリーマンショック以降、大不況に呻吟する今の社会で一番大切なこと。神戸新聞のテレビドラマにありましたが、震災当初は被害による暗い悲しい話、被害者総数のなどが大見出しで紙面を占拠していた時、実際に父親を亡くした論説委員長の社説に書いた「被害者の立場に立った報道」という一文によって、明日に向かって立ち上がる市民の行動にスポットを当てる、つまり市民を励まし市民とともに生きる視線に立った報道に変更する新聞社の編集方針です。現在、繊維業界などは塗炭の苦しみにあります。これを受けて毎日の報道も、撤退、倒産、縮小、厳しい、苦しいのオンパレードです。繊維業界の人はそんな事は百も承知です。厳しい中でどう生きようとしているのか。この視線こそ最も重要だとの原点に返るべきではないのでしょうか。
 1月17日を前に、感動のドラマの余韻と神戸ワインによるわずかな酔いで長々と書いてしまいました。
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2010年01月16日

高知県土佐清水からの贈り物

201001161203.JPG 今朝一番、大きな宅配便が届きました。高知県土佐清水市に住む義兄からの贈り物で、自然の香りぷんぷんの野菜、果物、花卉、塩乾物などがぎっしり詰まっていました。土佐清水は、そのほとんどがスッポリと「足摺宇和海国立公園」の中に入り、南国特有の太陽と青い空、緑と恵み豊かな海に育まれてきました。カツオなど遠洋漁業として有名で、またかつて多くの文学青年が、人が人であることへの絶望感に共感した田宮虎彦の「足摺岬」は、お遍路姿とともにこの地を全国区にしました。さらに1世紀以上前に遥か太平洋を越えて米国に渡り、幕末から明治初期にかけて日米外交を牽引した“ジョン万”こと中浜万次郎は清水の中心地から足摺岬に向かう途上の中浜生まれです。
 さて肝心の贈り物の中身。昔から土佐に行けばどんな野菜でもあるといわれるように、自家製野菜が実に潤沢に梱包されていました。ジャガイモ、ラディッシュ、水菜、ブロッコリー、青梗菜、からし菜、ルッコラ等々、いずれも新鮮な香りが食卓に広がります。果物の文旦とポンカンはお隣からのおすそ分けと言うことでしたが金柑とレモンは自家製。そうそう、春先から足摺岬を彩る椿も一枝入っていました。そして塩乾物はきびなごの干物とチリメンジャコ、さらにはお手製の切り干し大根と「東山」。
 この「東山」、あまり知られていないようなのでちょっと説明します。小ぶりのサツマイモを丸のまま軟らかくなるまで煮て、1.5〜2センチの太さのスライス状に切り、それを屋根の上など天日に干します。全国的によくある乾燥芋や干し芋のように、糖分が白く吹き出すほど長時間乾燥はしません。そのために中身が柔らかく仕上がります。そのままでも、ちょっと火にあぶっていただいても美味です。この地方では子供のおやつにしていたそうで、「東山」の由来は、日が出る東の方面に向かって天日したためとの説もあります。100余年前、万次郎少年もこの東山を口にくわえ、赤い椿の花の下を走り回っていたと思えばまた楽しいですね。清水からの自然いっぱいの贈り物、本当にありがとうございました。早速いただきます。(写真説明−左から文旦、ポンカン。その上が椿一枝、チリメンジャコ。手前がきびなごの干物。皿の中は左からラディッシュ、レモン、切り干し大根、「東山」。上が金柑)
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2010年01月15日

「氷灯には満足したが・・・」

X (2).JPG この人、写真もプロ並みです。ぜひクリックして大きく見てください。
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中国東北紀行@「先達はあらまほしき事なり」

 新しいオヤジの登場です。「フーテン」のペンネームですが、れっきとした日本人です。ただ若干、フーテンの気風も持ち合わせていますが(ちょっと失礼)。
 いま中国・上海に駐在しています。とにかく中国大好きおじさんで、2年ほど前まで上海駐在記者として頑張ってもらっていましたが、60歳の定年退職後もあらためて昨秋から上海に赴任してバリバリやってもらっています。この正月も、大切な奥さんを大阪に残して、わざわざ極寒のハルビンなど中国東北に旅するのですから、いかに中国にはまっているかお分かりいただけるでしょう。ではフーテンさんの第一回投稿、お願いします。

 氷灯(ビンドン)=氷祭りを見るため、物好きにも厳寒のハルビン市(中国・黒龍江省の省都)へ行ってきた。上海から空港まで飛行機で2時間40分、市内へはリムジンバスでさらに約1時間。街中に設置されている温度計は、正午近くでも氷点下22℃を示す。上海とは30数℃の差だ。
 市内を流れる大河、松花江はこの時期凍りつき、幅約1キロの川面を歩いて渡れるようになる。この松花江から切り出した氷を使って大きな建造物を作ったり、彫刻したりする。あたりが暗くなると、照明が入る。気温があまりにも低いため、精緻な細工が可能であり、しかも電灯の照明を内部から当てても溶けることがない。照明に照らされた氷、とりわけ氷内部からの透過光が幻想的な雰囲気を作る。大きくやはり精緻な雪像も作られ、魅力的だ。
 今回のハルビン行きには、実はもうひとつの狙いがあった。ハルビンからの日帰りで、長春へ行くことを考えていた。吉林省の省都であり、「満洲国」の「首都」だったかつての「新京」だ。CRH(いわゆる新幹線)を利用すれば片道1時間46分。ハルビンから長春行きの切符は上海で手配済み。復路は、適当な時刻にCRHがなく予約できないため、特快切符(片道2時間)を長春駅で買うつもりだった。
 すべて順調に行くと思っていたら、大きな“落とし穴”が待ち受けていた。ホテルを出たものの、タクシーがまったく捕まらない。空車の表示が出ているのに、人が乗っている。知らなかったが、ハルビンのタクシーは乗り合い方式。行く先を聞いてから、同じ方向へ行く人を乗せる。「ハルビン駅(火車站)」と叫んでも、ことごとく拒否された。通勤時間に当たっていることも災いした。
 意を決し、凍った道を歩くことに切り替えた。知った道を素直に行けば良かったが、近道と見当を付けた角で曲がって時間を稼ごうとしたところ、とんでもない方向に。途中でようやく気付いて元の道になんとか戻り、45分ほどかけて駅にようやくたどり着いたときにはCRHが出た直後。窓口には切符を買う客が文字通り密集しており、新しい切符を買うのもままならない。結局、長春行きを断念するというおそまつな結果に終わった。「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」(「徒然草」)を実感した次第だ。
 同じころ長春へ行った人の話を上海へ帰ってから聞くと、ハルビンより南にありながら長春の気温は氷点下35℃前後。やはりタクシーが捕まらず、40分も立ちすくんでいたとか。帰りの切符のことも考えると、行かなくて(行けなくて)良かったかもしれない。
(フーテン)
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2010年01月14日

故障かな本日付けがアップできません

 故障なのでしょうか、14日付けがアップできません。
ただし右側緑色の、最近の記事かカテゴリ(日記)の部分をクリックするとでてきます。
 いま問い合わせています。悪しからず。
posted by ウツボおやじ at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記